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夢破れても

最近は、夕暮れどき、犬の散歩をして写真に収めるのが楽しみだ。オレンジの空を眺めながら、いつまでもいつまでもいつまでも草のにおいを嗅いでいる犬の後ろを、サンダル履きでだらだらと歩く。ああ、幸せだなと思う。

(納期には縛られているが)時間や曜日に縛られず、好きなときに好きなだけ文章を書くことができる……そんな幸せが自分の人生に待っているとは思わなかった。そんな私の昔話や、これからの話でも書こうかと思う。

文章漬けの日々をなんとなく

文章を書いて初めてお金をもらったのは、16か17のときであった。タイトルは「初恋」。地元新聞社の新春短編小説で、新人賞をもらったからだ。

当時の私はまん丸顔の高校生。あまり深く考えずにペンネームをつけて応募した。受賞作のうち、一席・二席・三席・特別賞・新人賞は、顔写真と本名付きで新聞に掲載される仕組みだとも知らず。あのころに戻れるなら20キロ痩せてから応募するし、ペンネームは使わないだろう。後悔してもしきれない。受賞後、その新聞を自分で読んだのは2回きりだし、2回目は10年以上が過ぎてからだった。顔写真付きで新聞に小説が掲載されたのは、ちょうど誕生日だったように記憶している。

受賞の知らせを受けたのは、修学旅行先だ。新聞社からの連絡を受けた妹が、わざわざ宿泊先のホテルに連絡してきてくれたのである。うれしくて泣いていたところ、心配した同級生が声をかけてくれたので、正直に話した。クラスメイトはいい人たちばかりで、温かく祝福してくれた。

そんな出来事を知らされていなかった親や担任は、新聞を見て知ることになる。想像よりも周りの反響は大きく、私はわずか17にして「文章を自分の名前で書くこと」の重さを知った。全豪集会では名前を呼ばれ、新聞は張り出され、親族中に新聞を送りつけようとした父親と壮絶なバトルになった。賞金よりも親族からもらったお祝いのほうが多かった。30年も過ぎるが、特に良い思い出ではない。内向的な私は、そっとしておいてほしかったのだ。

その縁から、地元タウン誌でのエッセイを書くようになったのが、18のころである。ありがたいことに、新聞社からも何度かエッセイの依頼を請けた。タウン誌でのエッセイは、しばらくは単発だったが、やがて毎月書くようになる。それが10年くらい続いた。いずれも実名だったので、全方位に気を遣いながら書いた。18のときから、ブログ以外で自由に文章を書いたことなどない。タウン誌は病院や薬局に置かれていたため、待合室で名前を呼ばれると、知らない人から多々声をかけられて「いつも読んでるよ」と応援されたものだった。

懸賞小説はその後も何年かは投稿を続けたが、どうしても一席がとれない。10年ほど毎年投稿していた。二席をとったとき、社長が無言で握手してくれたのを覚えている。高校時代と違って、誰もからかってくることがなかったのが、とても快適だった。

最初の小説がきっかけで、映像作品の脚本、漫画の方言監修など、いろんなことをする機会に恵まれた。映像作品の脚本は、会社と関係があるようなないような微妙な案件だったので、「ほぼ」無償である。必要なものを買ってもらったほか、有り得ないくらい食事や宴席に連れて行ってもらったので、無償だとまでは言い切れない。そんなわけで、30代前半までは、会社員として働きつつ、良く分からないスタンスでいろんなものを書いて暮らした。その後に、インタビューの文字起こしや校正のアルバイトも経験した。20~30代は、本業と執筆の合間にアクセサリーを作って週末はフリーマーケットや手作り系のイベントに参加していたのだから、若いころの体力というのはおそろしい。

「文章を書いて暮らしたい」というのは10代のころからの夢である。会社員として暮らしつつ、いろいろな経験を積みながら、なんとなく生きていた。ずっと会社員として働くんだろうなと思いながら。

流れが変わったのが「Webライター」というものを知った2016年である。そもそもエッセイや小説などしか書いておらず、SEOという言葉も知らないまま、Webライターを始めてみた。おかげで最初のうちは勉強漬け。やがて愛犬の死や勤務先の閉鎖を経て、いろいろ思うところもあって、現在はWebライターを専業としている。

夢破れても

「文章を書いて暮らす」という夢は叶った。

そもそも私がやりたかったのは創作であるため、学生のころ願っていたかたちとは大きく違う。近いようで遠い場所にいると感じることも少なくない。それでも、広い意味では「夢が叶った」といっていいだろう。

ビジネスとしても、ある程度は成功しているといえるだろう。ありがたいことに、私はクライアントに恵まれている。多少の変動はあるが基本的には期間の定めもなく、既存のクライアントや、その紹介による仕事をしている。

そんな「今」を作ってくれるきっかけになったのは、きっとあの小説だ。ある意味では黒歴史ともいえるので、読み返したいとは思わない。たぶん二度と読み返さないだろう。それでも、明らかに、私にとってはターニングポイントだった。人生のあまりにも早い段階でターニングポイントを迎えてしまい、ビジネスに生かすという発想もなかったので、結果的には遠回りをしている気もするが。

  • 小説を書いてみたい

  • ライターになりたい

  • 副業を始めたい

  • 英会話を始めたい

  • 楽器を弾いてみたい

許される範囲で、いろいろやってきた。英会話を始めたのは34くらいだったろうか。文法はいまいちだし高度過ぎる会話は無理だが、下手なりに雑談ができる程度にはなった。40を過ぎて楽器を始め、去年からコピーバンドで遊んでいる。40代後半になってからバンドを組むとは夢にも思わなかった。

「やりたいな」と思ってから「やる」までの時間は、短ければ短いほどいい。なぜなら日に日に年を取り、体力も気力も記憶力も劣化していくからだ。何かを「若くないから」という理由で諦めようとしている人がいるのなら、全力でもったいないと思う。挑戦してだめなら諦めればいい。努力すれば何事も多少の結果はついてくる。「もっと早く始めればよかった」と後悔する日は多いが「やらなければよかった」と後悔したことは一度もない。

何事も最初の壁が一番高い。そこを登ると違う景色が見えてくる。たとえ思うようにいかず夢破れても、挑戦する習慣がつくと、流れは変わってくる。

このさきどのくらい、ライターとして家でのんびり働き続けられるかは、私にもわからない。それでも、うまくいかなくなったなら、また新たな夢に踏み出していくだろう。


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