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早朝の悪夢のような思考

朝、6時半。LINEの着信音が鳴った。
40年来の友人からだった。

いつものように唐突に「なるほど、としか言えない」とあった。

彼からのLINEは、わたしの「思考の大切なトリガー」なので、早速開く。

目に飛び込んできたのは、眠気を吹き飛ばす緊迫した内容だった。

以下、投稿したご本人の全くの未知の方であるが、『X(旧Twitter)』への投稿という公開前提のメッセージなので、全文を引用する。

「(日本語でも書いておきます)

純粋に政治という観点から見ると、パレスチナ/イスラエル市民の生命、アラブ諸国、アメリカ、イスラエル、すべてを罠にかけるハマスの生き残りを賭けた乾坤一擲の賭博は見事で完璧な勝利に終わった。
虐殺が虐殺を生む、自動機械のようなメカニズムを巧妙につくりあげた。

バイデンの、公で見せたことのない怒りを露わにしての演説を見ても関係諸国全ての敗北感は明らかです。
どの首脳の顔にも全ての努力が破綻した悔しさが滲み出ている。

初めから復讐を求めてのハマス探索は無理な報復だったが、ただひたすらパレスチナ人を虐殺し続けるだけの現状は、たったいま停止するほかない事態になっている。

満洲という「生命線」を賭けて無数の中国/満州人を虐殺し続けた大日本帝国は囂々たる非難と国際的な孤立の果てに、どうなったか?

ハマスの賭けの勝利を認めて、アラブ諸国とイスラエルとアメリカで書いたハマス排除のシナリオを撤回して、「ハマスのいるパレスチナ」案を呑むしかない。

それが出来なければ、国家・政府と民族を激情や憎悪に駆られたときでも分離して考えられるほど人間の文明は発達していない。
再び「ユダヤを殺せ」の声が世界に満ちることになる。

事情が判っていない極東の日本ですらイスラエルへの「憎悪」の声が高まっているのを、ぼくは見ている。
ソーシャルメディアを開けば、自分が正義に立つチャンスさえあれば、感情を煽って、自国の政治社会には向けられなかった怒りと鬱憤をイスラエル政府へ向けさせようとするひとたちまで、いくらも見受けられる。
これが「ユダヤ憎悪」に簡単に変わるのは歴史上、嫌と言うほど見て来た。

無理なものは無理です。

イラン政府の影のことなどは、もう、「起きてから考える」ほかないよ。

いまは虐殺をやめるのが最も緊急だとおもう

憎悪の鉾をしまって
兵士たちも家に帰るときが来ている」

書いた方は、James F. ガメ・オベール(=ジェームズ・フィッツロイ)という「外国人」のブロガーの方らしい。本も出していた。

眠気がまといつく中で文章を読むうち、徐々に思考の回路が覚醒、沸騰し、以下の返事をLINEに書き込んだ(一部加筆修正)。

「読みました。ありがとう。

確かに(この方の)おっしゃる通り、戦争の臨界点だと思う。イランを巻き込み、ベイルート、シリア、ベイルート、紅海を戦場とする戦争の。

シリアはトルコと長く国境を接し、黒海を挟んだ向こう側はウクライナである。ロシア・イラン/イスラエル・アメリカは戦争の発火となる接点だ。

またこれは、戦後のアメリカの帝国的な軍事力・同盟関係による中東支配の決定的衰退を示す分岐点だろう。悪夢のような、「シリア戦争」状態の螺旋的空間的拡大。ガザとの結合。

さらに、スターリン主義を原点とする全体主義国家ロシアが、資本の暴走、戦争の暴走を止められなくなった時、対抗的であるとはいえ、他国への帝国主義的な侵略を開始するという信じられない事態を我々はこの3年間見せつけられてきた。

これが融合するのだ。

さらに、戦争というのは人間の政治的な集団的心性の怪物であるという問題を踏まえれば、「ユダヤ憎悪」も政治的極限状態を意味する。毎日飛び込むZionistや、ユダヤ極右のヒットラーを彷彿させる映像・発言は、ガザ・ウエストバンクは、「アウシュビッツ」だと思わせてしまう。

「ユダヤの民」の歴史的宗教的な受苦的主体としての象徴性から、帝国的人種的ジェノサイドという「ファシスト」的象徴性へのメタモルフォーゼ。

「ユダヤ憎悪」は、朝鮮人差別、中国人差別、そして戦争や災害における排外主義的人種主義的殺戮に比して、旧日本帝国では広がりはすくなかったが、ヨーロッパの中でのそれは気化したガソリン状態だと思う。それが怖いから、指導者、知識人はガザ支持を弾圧し、イスラエルの自衛支持を免罪符にしている。これが本当に発火すれば、ヨーロッパと非ヨーロッパの「共に住む」「共に生きる」というあり方が爆縮的(インプロージョン)に吹き飛ぶのだ。

「差別排外主義」。いい慣れた言葉だが、これだと思う。

わたしは「ユダヤ」の人々とその歴史、ユダヤ教を知れば知るほど、Zionismは、帝国主義とヨーロッパの人種主義が核であり、戦後、それがイスラエルという「悪魔」を作り出した。パレスチナの人々こそ、「獣人」ではなく、人間であり、イスラエルの民には「人間にとどまれ」と思う。逆にハマスの戦士に、若き日の自分を見てしまう。ロマンティシズムだろうか」

書き終わると7時30分になっていた。

悪夢の思考を続ける自分は絶望の砂地にずり落ちようとしている。

希望はないのか。

ジュディス・バトラーは「死の哀悼性」という視点でパレスチナ/ユダヤの問題を考えているが、また、「考えないこと[nonthinking]の帰結は、ジェノサイド的である」とも提示している。「関与の否認自体が倫理的問題である」のだ。

「戦争の非対称性」という使い古された指摘から、21世紀の今になって、改めて、戦争は人間を「人間」と「非人間」に振り分けるという事実に逢着させる。

しかし、大事なことは、「植民地収奪の中で両者は分かちがたく結ばれている」「意図せざる近接、そしていがみあいながら鼻突きあわせ婚約もせずくっつくという存在様態」である。

ジークムント・フロイトもまたユダヤ人であるが、『モーセと一神教』という著書の中で「モーセ」はエジプト人なのではないかという考察を展開している。歴史学あるいは考古学に裏打ちされたものではないとはいえ、フロイトが考えたこの問題は、「故郷喪失」というユダヤの民、パレスチナの民の「共通性」と現実の「共住性」を受け入れること抜きに、解決不能であるということへの思考の糸口を示しているのではないだろうか。非現実的と思われる思考の此岸から思考を始め、思想が現実を掴むことが可能である希望を持たなくてはならないと思った。

早朝の悪夢のような思考から目覚めて、朝日の中で「希望の栞」を探した。

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