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vol.16 乃木希典将軍 --- 台湾上陸地点 --- (台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)

乃木将軍台湾上陸

台湾屏東の枋寮(ファンリャオ)と言うところに乃木将軍登陸紀念公園がある。説明版が3つ有ったので翻訳してみた。

まず赤枠
番仔崙(ファンザイルン)海岸
乃木将軍の上陸地点
清、光緒21年(1895年)、清朝は甲午戦争に敗れ、日本軍は5月基隆に上陸し10月には乃木希典中将が第2師団を率いて枋寮の大武力に上陸した。(乃木中将が)君臨していた間、枋寮に駐留する工兵隊が道路の改修を始めた。道路の整備を開始し、電線を架設し台東と繋いだ。1896年から計6回ほど大規模な整備、拡幅、改良が行われた。

次に青枠
乃木希典将軍の紹介
1896 年、第3代台湾総督に就任した乃木希典は、その任期中に有名な 3 段階警備制を実施した。乃木希典が最も称賛されるのは忠君と日露戦争だ。 乃木将軍夫妻は、明治天皇の埋葬の直前に殉死した。これは乃木の天皇への忠誠を示す。 枋寮郷の乃木将軍上陸碑は、単に戦争の跡を留めたりエピソードを示すだけのものではない。歴史上の人物の特徴や功績を称えるものである。乃木の誠実さは、後世の人々が学ぶに値するものである。これこそが歴史的史跡が伝えるべき貴重な価値である。

そして緑の枠
1895 年 4 月 17 日、清朝は甲午戦争に敗北、李鴻章を派遣し下関条約に署名させた。屈辱的に国の支配権を失い台湾と澎湖を日本に割譲した。 日本軍は 6 月 7 日に台北を占領し10 月 11 日に全台湾を占領した。
(10月11日、乃木希典中将が率いる第二師団の兵約1万は枋寮番仔崙に上陸し、佳冬六根村の左推へと進み六堆客家の村を焼き払い、11月12日に台湾南部の抵抗が終結した。台湾全土の最後の一戦となった。)
1999年末
枋寮鄉公所

緑の枠の石板は古墳の様な盛土のてっぺんに設置されていた。

この文字が読めない!
→  辱國喪權
(台湾人に教えてもらった)


少し離れたところに別の説明版があった。これも翻訳してみる。

ほぼ同じ事が書かれていた

清光緒21年(1895年)、清は日清戦争に敗れ、10月、乃木希典中将率いる第二師団が枋寮に上陸した。
  下関条約の調印後、日本は南北ニ方面に軍を派遣して台湾を占領し、最後の抵抗勢力を一掃した。1895 年 10 月 11 日、(後に)第 3代総督となる乃木将軍が第二師団を自ら率いて澎湖から枋寮沖に来て早朝上陸した。その後、海岸線に沿って北上し、佳冬、東港、鳳山、台南へと攻め進んだ。ここに51 年に及ぶ台湾植民史が始まった。
(翻訳終わり)

たまたまGoogle MAPで乃木と言う文字を見つけ不思議に思った。コメントをいくつか読んで、それがあの乃木希典だと言う事を知り、ここ暫く気になっていた。それで、2023年2月26日、屏東に行く用事があったのでついでに行ってみた。乃木将軍が台湾に来ていたとは知らなかった。

高雄と屏東ということで高屏地區と言う。台南を含めると南高屏だが、あまりそうは言わないらしい。
潮州でスクーターを借りて45分ぐらい
のどか。説明板と盛土の他は何も無い
沖に軍艦が停泊していたのだろうか

この様なこともきっちり記録し、人々の記憶に留めていこうとする台湾地方政府の姿勢が感じられた。

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