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vol.7 布農族抗日戦士の子孫 (台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)

高雄市桃源區梅山巷

「どうだ、おれはあの肖像画の顔に似ているだろう」と言って快活に笑いながら自慢する。阿里曼(アリマン)さん。

本当に生き生きとご自身の歴史観、価値観をかたってくれた。


この人は布農族抗日の英雄、拉荷阿雷(ラフアライ)の子孫で4代目だそうだ。梅山で奥さんとともに民宿を経営している。入口よこに大きな石板があり、歴史が記されている。翻訳してみる。

(翻訳)

拉荷阿雷ラフアライ(1854-1943)

日本統治時代の台湾における布農族の抗日活動の中心人物だった。  1910-1915年にかけて日本は力で山岳地帯を制圧し、猟銃の提出を強要した。これが人々の激情を掻き立てた。ラフアライは秀姑巒川の上流にある日本の警察駐在所を襲撃。警官の首を取り玉穗社(現在の老濃渓上流)を守った。20年近く抗戦を繰り広げたが、平和的に幕を閉じ和解した。そして桃園郷勤河村に移った。

抗日戦争の仲間

他にアリマン・シケン、ラマダ・シンシン、サリアン、アリマン、アヌ、ラグダイ、フソン、インガン、アヌ・ドンブ、ジャンなどもいた。自由のために戦った彼らの英雄的な行為は深く賞賛される。この記念碑を建てる。
玉山国家公園管理事務所
ラフアライ文化協会
2001.11
(翻訳終わり)

Google翻訳を元にかなり言葉を補って意訳している。気になる方は原文を参照下さい。文末に置いておきました。



訪問は2021年3月7日。観光客はたくさんいたが、抗日戦士の子孫の所に日本人が訪問したのは久々だったようだ。アリマンさんは大変歓迎してくれた。片言の中国語で話を聞いてみると、アリマンさんは、先祖のラフアライが18年という長きに渡って大日本帝国に激しく抵抗した後、最終的に和解したことを高く評価し、誇りに思っているようだった。だからその交渉相手だった新盛宗吾(駐在所主管)と森丑之助(人類学者)の子孫に是非会いたいと、何度も何度も言っていた。アリマンさんは部屋に戻って本を2冊持って出てきた。写真集と歴史考察の書。行間に赤いペンで線が引かれあちこちに書き込みされていた。思いの強さが伝わってきた。

「最後的拉比勇」徐如林,楊南郡 著
著者直筆のサインもあった
上記の本の中での重要人物紹介。森丑之助は台湾原住民族に詳しい著名な人類学者。通訳も兼ねていたもよう。
ラフアライと周囲の戦士を説得して和解に持ち込んだとのこと。アリマンさんは、特にこの人の子孫に会いたがっていた。

写真集の方では、当時の人類学者が布農族の写真をたくさん撮っており、そのために祖先がどんな服を着ていてどの様に暮らしていたが分かると評価していた。

湯淺浩史 著
上の左の写真は大変有名で博物館とか他の書籍にもよく掲載されている。


この国道20号は、台南駅前を通っている。その道をただひたすら山に向かって走って行くと図の赤丸あたりに来る。
梅山遊客中心(観光案内所)を右手に見て、左手の小道を下って行く。吊り橋を渡っても迂回しても集落にたどり着くことができる。
近くはこんな雰囲気の吊り橋もある
歓待してくれました。記念撮影させていただきました。



(原文)
拉荷阿雷(1854-1943)
為台灣日據時期布農族抗日活動中心的靈魂人物。日人於(1910-1915)力行控山區,逼繳獵槍,激盪民情, 秀姑巒溪上游日警駐在所,手刃員警頭顱,並據守玉穗社(今荖濃溪上游),展開長達近20年的抗戰,終以和平落幕,遷居桃源鄉勤和村。

參與抗日的同伴

尚有阿里曼西肯、拉馬達星星、薩利安、阿里曼、阿怒、拉古帶、呼頌、贏幹、阿怒東布、將等,他們為自由而戰的英勇事蹟,深得景仰,特立此碑。
玉山國家公園管理處
拉荷阿雷文化協會
2001.11

訪問する前日の午前中まで、ここにこの様な人がいる事を全く知らなかった。どこに行こうかとGoogle MAPを眺めていたら、誰かのコメントで抗日戦士の子孫の事が書いてあるのを見た。それでここに来た。この壁を見て、その横でジュースを売っていたおばさんにちょっと聞いてみたら、家に向かって大きな声で「アリマーン」と呼んだ。民宿の玄関からアリマンさんが快活に飛び出してきた。

上述の歴史書「最後的拉比勇」には、これまた歴史と言うか人生と言うか、何かそういうことを考えさせられるエピソードが記されていた。しかし、長くなったので、それはまた別の機会にご紹介したい。

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