vol.12 「震洋艇」 名の由来 --- 台湾で知る日本史 ---(台湾各地の記念碑や観光案内板を翻訳してみる)
台湾本島の西、澎湖島の南、望安鄉(ワンアンシャン)にある特攻艇の格納壕跡。vol.11で紹介した説明版の近くに別の説明板が有る。今回はそれを翻訳してみる。ほぼGoogle翻訳だが、一部修正を加えた。
(翻訳)
赤枠の部分
1944年、日本軍司令部は「①-⑨金物」と命名された特殊攻撃作戦用の9つの新兵器を提案した。このうち「④金物」と呼ばれる「船外機付き攻撃艇」が震洋艇の前身だった。
建造計画の策定後、海軍本部第4部が全権主導して船体設計を行った。船体の主な外装は木製材料を使用した。試作船の動力には比較的入手しやすかった豊田4トン貨物エンジンを採用した。紆余曲折を経て、「④金物」は昭和29年(1944年)5月27日の海軍記念日にようやく完成した。幾度かの改良を経て試験に合格し、同年8月28日に「④金物」は正式に震洋艇と命名され、日本海軍の兵器となった。
「震洋」という名は、明治時代の兵器「震洋」からとったもので、「一発必中、敵艦撃沈、太平洋を揺るがす」という意味が込められている。
青枠部分
試作時には多くの種類があったが、実際の量産時には単座の1型艇と、複座の5型艇のみが選ばれた。
1型艇は 1 人乗り、長さ約 5.1m、幅 1.67m、高さ 78.5m、重さ約 1.4t、喫水 0.32-0.38m。 62 -最高 78 馬力に達し、航行速度は 16-23 ノット、航行距離は 110 海里に達する。
防網カッター、特殊機能用250kg爆薬、燃料タンク、航行用3式コンパス等を装備。 1945(昭和20)年初頭には、12cm口径のロケット噴射砲2門が装備された。
(翻訳終わり)
読んでわかる通り、過去の記録、事実を客観的に記し展示してあります。感情を込めたり、イデオロギー的な観点をしのびこませたりせず、淡々と展示してありました。少なくとも私はそう感じました。この事がかえって、当時の戦闘員、あるいはこれが向かってきた時の敵方の戦闘員の心情を想像しやすくしている様に感じました。
日本ではなかなか見られない実物展示を台湾で見る事ができます。望安鄉には比較的簡単に行く事ができます。行き方はまた別途記していきます。
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