「利他」と「利己」「利己」と「利他」問答

農林中金バリューインベストメンツさんの記事です。

とても興味深い問答でした。

「利他」と「利己」

資産形成に向けて行動を起こす、投資を始める、その際、ほぼ全ての人が「お金をふやしたい」そう考えていることでしょう。動機は「利己」。私自身もそうでした。

初めは金儲けのための投資でいい

まろさんm@さんと一緒につくっているリレーエッセー「本日のスープ〜株式投資をめぐる三重奏〜」。この60皿目(スープなので単位は「皿」なんです)。

まろさんは「資産形成、投資の入口は、金儲けでいいじゃないか」。でも、そこからどう変化していくか、資産形成、投資の過程で何を見つけ、何を感じ、「考える」ことが大事なのではないか、ということだと読み取りました。それを踏まえて、こちらに続けたのがこちらです。

「このお金はどうやってふえているのだろうか」

この問いに対して次のように書きました。

私の託したお金が株式に替わり(私の場合、投資信託を介してですが)、
その株式の発行体の会社が着実に業績を向上させてくれて、 かつ、
その業績等から株式に価格を付け、その売買の場を提供する市場が機能しているからこそ、私のお金はふえていたのです。
言い換えれば、お金を託している会社や市場が私のお金をふやしてくれていたのだ。
こんな結論に至ったのです。

今これを見返してみると、ほんの少し(実際のところは大きなものかもしれません)「違うなあ」と思う部分があります。

当時、「お金がふえている」としています。しかし、私の資産、ポートフォリオの中身のほとんどはお金ではありません。投資信託を通じて保有している資産=株式の「時価」「評価」が、それを取得した際に支払ったお金よりも、ふえている、ということです。それら資産は流動性が高くお金に短期間に転換することができるわけですが、私の現在の資産の正体はお金ではありません。

この「流動性が高くお金に短期間に転換することができる」ということは大変重要です。これが「株式に価格を付け、その売買の場を提供する市場が機能している」ことに他なりません。市場が極めて大切な存在であるということですね。私はできうる限り長い間、株式を保有していたいという考えですが、定期的な収入が無くなった後、あるいは、急遽現金が必要になった場合、株式を現金に換えることになります。それが何時になるか分かりませんが、どのような市況であっても、スムーズに換金されるためには、しっかりと変わることなく機能している市場が不可欠なのです。

価格を付ける場、流動性を提供する場として市場は非常に重要ですが、それ以上に大事なのはそこで取引される対象、株式です。株式に価値があると市場参加者が認めるからこそ、価格も付くし、売買が行われるのです。株式が価値あるものだと誰もが認めるためには、その株式を発行する会社に期待や実績が必要です。その会社がつくりだしてきた実績等から、これからも持続的にその価値を高め続けることができるかどうか、ということです。

社会に対して価値を提供することができなければ会社の業績はジリ貧になっていきます。その会社が社会に対して何をもたらせるか、この観点で、株式投資は「利他」になるのだろうと思います。社会に必要とされてナンボなんですよね。

そこで私は自分の意志を持って選ぶことが大事だと考えるようになりました。運用できる規模やその作業に充てられる時間等の制約から、個々の会社を選ぶことは諦めました。そこで、信頼できると判断した投信会社、ファンドマネジャーに、投資先を「選ぶ」ことを任せています。なぜその会社を投資先として選んだのか、また、投資先から外したのか、それには注意するようにしていますが、そこに対してあれやこれや注文をつけたりはしません。信頼できる、そう自分で判断して託したのですから。投信会社やファンドマネジャーの判断に疑問を感じたり、「違うな」と感じたら、それは私の判断が間違っていたと考え、追加の買付を止めたり、解約したりするわけです。

ちょっと脱線しました。しっかりと社会に価値を提供しているか否か、(特に今の情勢で非常に重要なことですが)その価値を「これからも」提供し続けることができるか否か、これはその時々に株価指数に採用されているか否かとは一切関係が無いと私は考えています。そこには人の目や耳、肌、そして何よりも「ハート」が必要なのだろう、と。「利己」だけではなく「利他」は必ずあるはずです。

私のエッセーに続けてのm@さんです。

スチュワードシップ・コードは影響力の大きな機関投資家に向けて発せられた原則ではありますが、投資家に本来課せられた責任を明文化したものでもあるのです。株式に投資する人達には企業のオーナーの一人として、議決権についても考えてみて欲しいと思います。

m@さんが触れられている議決権。とても重要な要素だと思います。それ以前の話なのですが、そもそもその会社の株式を持つか持たないか、「選ぶ」ことそのものが投資家の責任なのだろう、と私は考えてます。「利他」を忘れ「利己」のみに走っている会社かどうか、は取引所も株式指数の計算会社も日々確認しているとは思えません。また、何百、何千の会社の株式を保有する投資家がそれを本当に判断することができるでしょうか。誰か任せの無責任な単なる「利己」に陥ってはいないでしょうか。社会にとってさらに替えの利かない存在となってもらうために議決権がその役割を果たすようになって欲しいものですが、パッシブ運用者に多くは期待できないように感じます。

m@さんのこのエッセーに、まろさん。

アダム・スミス(1723~1790)が「国富論」の中で株式会社の仕組みに対し、こんな懸念を書き残していたという。
・株主は有限責任であるために、会社から受けとる配当金のことしか考えず、会社の業務に関心がない。
・株式会社の経営に当たる取締役は自分自身のカネを投下するのではないから無責任になる。

出ました、アダム・スミス!

ここで、冒頭の「利己・利他」問答に戻ってくる感じがします。

小川さんのお話から:

私たちがお金を出すことによってある企業が事業活動をすることができて、その企業が世の中に新しい商品やサービスを提供して、それによって回り回って世の中が良くなれば、私たちも投資のリターンが得られる。

全くこの通りです。特に大事だと感じたのは「回り回って」という部分でしょうか。「回り回って」というのは色んな場所、人を駆け巡りながら、時間も相応にかかって、ということですよね。

最初に書いた通り、入口は「利己」でしかないと思います、資産運用、投資は。

でも、そのリターンがどこからどうやってくるのか、価格が付けられて取引されるから、という見方をするところで止まってしまうのか。実際、ほとんどの投資信託のレポートは価格のこと、その変動のことのみを説明していたりします。そこで止まってしまうのではなく、その価格が何を基に付けられているのか、投資先のつくりだす価値にもう一歩踏み込んでいくと、「利他」のことを考えずにはいられなくなるのではないか、私はそんな風に思います。

本日のスープ〜株式投資をめぐる三重奏〜

100皿分をまとめたpdfファイル等をまろさんがつくってくださっています。
ご興味をお寄せくださったら、ぜひ御賞味くださいませ。


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