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【解釈と解説の棲み分け】

パンの耳を使ってラスクを作ろうとして、オーブンで20分くらい放置していたら炭を作ってしまっていた松木蓮です。途轍もないほどの炭の匂いがキッチンに充満しました。

解釈と解説の線引きをした方が良いということについて。

日本人の苦手なところとして、解釈が圧倒的に下手くそだと思っています。それこそ、英文和訳なんかさせられるし、しかも模範解答が直訳であることが多くて本質を突いていないような解答が多かったなと受験時代を思い出します。これは結構教育に罪があるように思っていて、解説を求められることが多いからです。

解釈と解説を僕の”解釈”で置き換えるなら、解釈は「主観」で解説は「客観」です。これはアート鑑賞で如実に表れるのですが、アート教育、いわば意味を考えるという作業、主観を生み出すこと、がコモディティー化していない日本においては解説に傾倒しがちです。換言するなら、誰にとっても捉え方が同じ客観的な「情報」に執着するということ。

中学生にモナリザを見せると、その作者を連想させる人がほとんどだと思います。それ自体は問題ないのですが、問題はそこで思考が止まっていて(そもそもダヴィンチを思い出す作業は思考ではない)その先の主観に基づいた感想がありません。

もちろんこれについては、教員の聞き方にも問題があるように思うのですが、解説ばかりする人の元で、解釈ができる人は育つはずがありません。

でも、アートを楽しむことの本質を突くのであれば間違いなく解釈で、誰が書いたよりも、何が書かれているのかを論理立てて想像することが大切だと思っています。時々聞く話なのですが、アートが身近にあるフランス人たちは芸術品をみると、それに対する自分の理解を説明します。

モナリザをみると、あの女性が浮かべる微かなる微笑みは、その背景とリンクさせて〇〇であると自分の中でロジック立てて説明するはずです。そもそもあの人は女性なのかという僕たちの中での前提に対して突く人もいそうです。

これが繰り返し行われる環境においては、既存(論理)同士に基づいて新規を創造する思考を訓練できると思います。それでいて、そうした新規性が飛び交う環境にいては、多様な受容耐性も自ずと養成されるはず。

こうした作業に慣れていない僕たちは、いざ意見を求められると途端に尻込みしてしまう。解説できる力の価値が薄れていく中では、この解説力はいずれ役に立たなくなりそうです。

それよか、「僕はこう思う。なぜなら〇〇だからだ。」というすごくシンプルな構造で話せる方が良さそうです。ずっと前からbecauseを使う人が多いなと思っていたのですが、もしかするとここに起因しているのかもしれません。

今日の「解釈」と「解説」。大学院での課題を見て思ったことです。課題文は結構アバウトであることが多くて、なんでこうなんだろうと考えてみました。きっと「解釈」を求めているんだと思います。

論文に書いていることを整理してまとめるのではなく、そこから何がわかりどういう風に咀嚼して、それがどう生きるのかを説明する作業がすごく大切です。

解説はヒト(他人)か機械がしてくれます。情報の整理はGoogleがやってくれます。解説力よりも、解釈力を高めた方が良いというのが最近の僕の課題です。

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