おいしい人生に、夜の散歩と熱めのお風呂を。
今日、散歩している途中に気付いたことが三つある。自分は夜に散歩することが好きなこと、人よりもキョロキョロしながら歩いていること、そして道を観察することが好きなこと。自分が目指す、”おいしい人生”のために、ふとした気付きは嬉しく思う。セレンディピティと、昔の人が名付けてしまいたくなる気持ちもわかる。
おいしい人生、というのは誰の受け売りだっただろうか。「おいしい」ということばに、初めて”いい”を思ったのは、パスピエの「おいしい関係」だったと記憶している。今改めて聞くと、歌詞のせいで大胡田なつきが恐ろしい女に思えてしまうが、多分いい人である。
おいしい、ということばを、普遍の中にある”いい”、またそれに近い使い方で表現している人がいると、どうも良い酒が飲めそうな、他の話題でもずっと話ができそうな、そんな関わりができそうな人間に見えてしまう。
さよならポエジーのライブで『「普通に美味いな、この飯」みたいなライブを目指していたから、結構今日は完成形です』とMCで話していた時は感動した。そうそう。それが一番おいしいんだよねと頷いていた。オサキさんは水飲み鳥のように頷く姿を見てくれただろうか。
仏教や新興宗教の常套句である善く生きる人生や、とびきり幸せに生きる人生を目指すことは、自分の欠点やミステイクに対してかなり厳しく審査してしまうことに繋がりそうで、昔から自分との関わりを上手く見つけられずにいた。
少しだけ過ちを犯してしまったから、苦しみを得ないと成長できないから、みたいな人生の諸事情を避けながら生きることは昨今もう不可能なのではと思っている。
きみも、普通に漫画村とかMusic FMとか使っていたでしょう。ChatGPT、使うでしょ。
おいしい人生をつくる。目指すのではなく、もう今からつくっていく。
ぼくが崇拝してやまない土井善晴先生は料理の美味しさをこう語る。(※①)舌で感じる美味しさと、身体で感じる美味しさは違う。
鮪の大トロ、A5ランクの牛肉(?)などは、舌に強烈な刺激を与えて美味しいと認識させるが、お味噌汁や切り干し大根はどうだろうか。「普通に美味いな、この飯」という感想が出てくるだろう。
この「普通に美味しい」が、身体で感じる美味しさなのだ。
人生は、普通に美味しい、でいい。たまに、とびきり美味しいものがあれば。寿司は食べたいし、旅行はしたいし、普通に欲しいものもある。ただ、それが満たされるのは、たまにでいい。
自分が普通においしいと思うものを増やすように生きる。
おいしい人生をセットアップするものを覚えていく。
ぼくはペットボトルの水が好き。
夜の散歩が好き。
自分と違う人の暮らしの在り方が好き。
誰もいない道が好き。
散歩の後に入る道が好き。
全然疲れていないのに熱めのお湯にバブを入れるのが好き。
卓球が好き。
文章を書く時間が好き。
深夜のコンビニが好き。
F1の噂話を見るのが好き。
T1が好き。
他愛ない話が好き。
サブスクで懐かしい音楽を聞くことが好き。
自分の暮らしが良くも悪くも自分から離れたときに、おいしい人生を思い出せるようにするために、自分が好きなものを言語化して手元に置いておく。
おいしすぎるもまずすぎるもない、普通においしい状態を覚える。
今日は嫌なことがあった。だから家に帰って、まず風呂にお湯貼りをする。そして夜に散歩へ出かける。ヘッドホンをして、自分とヒトリエが充分に会話できたら、ヘッドホンを外して、自分の足音と車が走る音だけ聞く。自分と世界の整合性が取れたら、家に帰ってバブを入れて、もうさっさと入ってしまう。お湯の温度は41度にする。ぬるめのお湯の方が健康にいいですよブームはもういい。
おいしい。ただの”良い”ではなく、そこに温かみが不可欠な良好性。
参考:
(※①)土井善晴著, 「一汁一菜でよいという提案」, (pp.24-27), 新潮文庫
カバー画像はchoitashi2828さんの画像をお借りしています。とてもいいおにぎりとお味噌汁の画像だったのでお借りしました。明日は塩むすびを作ります。