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アンチ・アンチ

 蓮實先生と言えば、また思いだすことがあります。

 そうした観点からみると、『経験論主観性』(五三年)いらいのドゥルーズの著作の大部分が、『ニーチェ哲学』(六二年)『マルセル・プルーストシーニュ』(六四年)『差違反復』(六九年)『資本主義精神分裂症』(七二年)といった具合に、むしろ投げやりと思える簡潔さで並置の接続詞とを含んでいることの意味が、多少なりとも把握しうるように思う。
(蓮實重彦著『批評 あるいは仮死の祭典』せりか書房刊・p.64)

 そう言われてみると、そうなのです。

 Empirisme et subjectivité、経験論と主体性、Nietzsche et la philosophie、ニーチェと哲学、Proust et les signes、プルーストとシーニュ、 le froid et le cruel、マゾッホとサド、冷淡なものと残酷なもの、原子と分身、Différence et différenciation、Différence et répétition、差異と反復、Spinoza et le problème de l'expression、スピノザと表現の問題、Leibnitz et le Baroque、ライプニッツとバロック、記号と事件、Critique et clinique、批評と臨床、L'Île déserte et autres textes: Textes et entretiens、Capitalisme et schizophrénie、資本主義と分裂症、Politique et psychanalyse、政治と精神分析

 タイトルや副題に並置の接続詞「と」「et」が含まれています。たしかに見落としてはならない「と」なのです。

 なぜ見落としてならないのかについては、どうか『批評 あるいは仮死の祭典』所収のジル・ドゥルーズ論をお読みください。

 私が説明すると、書いてないことを書いてしまいそうな気がします。いつもそうなのです。

【以上、拙文「まばらにまだらに『杳子』を読む(08)」より引用】


◆「AとB」での主役は「と」なのです


「AとB」と書いてあると、AとBのあいだに何らかの関係を見てしまいます。さもなければ、「と」で結ばれているはずがない気がするからでしょう。

 ロミオとジュリエット、ピンクとグレー、『男と女』(Un homme et une femme)、女と男、Ebony and Ivory、存在と無、存在と時間、ハリー・ポッターと賢者の石、蜜蜂と遠雷、北風と太陽、点と線、美女と野獣、老人と海、スクラップ・アンド・ビルド、トムとジェリー

 どこかで見聞きしたペアだと、そのペアが何であったかで決まる気がしますが、それでも分からない気がする場合もあります。「存在と時間、点と線って、どういう関係かな?」と考えこむ人もいそうです。 

 私とあなた、猫と犬、山と川、かわいいとうつくしい、砂糖と胡椒、火曜と金曜、歌うと読む、ペンとスマホ、数学と書道、アメリカと平安時代、鍵と砂時計、青と化石、寝台の上の蝙蝠傘と谷間の百合、ジル・ドゥルーズと蓮實重彦

 何だかなぞなぞみたいにも、ほのめかしや詩のようにも感じられるものがあります。意味深というやつです。シュールなギャグに感じられるフレーズもありますね。

 ところで、思わせぶりな「と」には気をつけましょう。何の関係性も示していない「と」がときどきあります。詩や哲学にありそうな気がします。どちらにも疎いのでよくは知らないのですけど。あと、私のnoteにもたくさん出てきます。要注意です。

 なお、「と」をめぐっての、この辺の話は、蓮實重彦先生経由ジル・ドゥルーズ先生のご意見を参考にしています。

     *

「と」はつなげます。「つなげる」のはいいのですけど、どういう具合につながっているのかは、きわめて「曖昧=テキトー=あんまり考えていない」場合が多いですよね。結論から申しますと、

*「AとB」に真ん中にある「と」は、「何でもありー」だ。

さらに、

*つなげてみないとわからない
*つなげてみてもよくわからない

と言えそうなんです。

だから、

*眺めているしかない

とも言えそうです。ああでもないこうでもない、ああだこうだと言いながら、関係を考えるのです。

 関係とは印象だからです。印象とは個人的なものでもあります。そんなわけで、この場合の「関係」は抽象と言っても大差ありません。

     *

 関係といっても漠然としていますから、具体的に見てみましょう。

 まず反対のようなペアです。

 大と小・マクロとミクロ・無限と有限・絶対と相対・SとM・もうとまだ・多いと少ない・ポジティブとネガティブ・白と黒・裏と表

 次に、動きや状態に注目しましょう。AとBがどうなのかという話です。

 引き寄せ合う・反発し合う・シンクロする・矛盾する・くっ付いたり離れたりする・まじり合う

 似ている・同じである・異なっている・結ばれている・からみ合っている・重なる・仲がいい・入れ子構造・表裏一体

 ずばり「○○関係」だと分かりやすいかもしれません。

 相関関係・因果関係・三角関係・ねじれた関係・あやしい関係・くさい関係・不倫関係・主従関係・親戚関係・競合関係・無関係

     *

 いろいろなAとBの関係が考えられますね。こうした関係は固定していなくて、流動的である場合も想像できます。彼女と彼は、十年前は夫婦だっただけれど、いまは雇い主とアルバイトの関係で、友達同士でもあり、きのうは不倫関係、きょうはきわめて険悪な関係、現時点では重なりあっている、なんてありえますよね。

 思うのですが、「AとB」では、AとBは刺身のつまで、「と」こそが主役ではないでしょうか。

 ロミオとジュリエット、ピンクとグレー、『男と女』(Un homme et une femme)、女と男、Ebony and Ivory、存在と無、存在と時間、ハリー・ポッターと賢者の石、蜜蜂と遠雷、北風と太陽、点と線、美女と野獣、老人と海、スクラップ・アンド・ビルド、トムとジェリー

 たとえば、上のペアでは「と」で結ばれている両者がどんな関係であるかが問題であって、両者は別の両者でもいいわけです。

 試しに「ロミオとジェリー」としてみましょう。「ロミオとジュリエット」や「トムとジェリー」とは別の関係が生じました。「ジュリエットとトム」でも同じことが起きるでしょう。

     *

「と」ってすごいじゃないですか。「と」自体には意味はないようでいて、二つの言葉を「つなぐ」という働きがあるのです。

「AとB」と書かれれば「と」は刺身のつまみたいに見えます。でも、この「つなぐ」という働きはほかの言葉にはない気がします。

「と」というごく短い言葉によって、関係性が立ちあらわれるのです。これを奇跡と言わずに何と言えばいいのでしょう。言葉が魔法に感じられます。

「と」は助詞と呼ばれてもいますね。助手とかアシスタントみたいじゃないですか。大きな働きをしているのにかわいそうだと思います。

     *

 まとめます。

「AとB」では、「と」で結ばれている両者がどんな関係であるかが問題であって、両者は別の両者でもいいわけです。

 両者は何であってもいいけれど、関係性をつかさどる(司令塔みたいなものです)「と」だけは外せない(だから、いつもあるのです)。

 声を大にして言いたいです。

「AとB」での主役は「と」なのです、と。

◆アンチ・アンチ


 冗談はさておき、さらに冗談を――次の冗談はもっともっと長いですが――言わせていただきます。

 たとえば、「SとM」と書くと両者のあいだに反対の関係を見ることが多いように、「AとB」というぐあいに「と」でつながれたもの同士を反意語や対立関係にあるとみなすのが一種の紋切り型になっている気がします。

 でも、そうでしょうか?

(「と」をめぐっての、この辺の話は、蓮實重彦先生経由ジル・ドゥルーズ先生のご意見を参考にしています。)

     *

 以下は「AとB」というふうに、よくペアとして口にされたり文字にされる二つの言葉についての個人的な意見および感想を述べたものです。長いので、読むというよりも、ざっと目を通していただくだけでかまいません。見出しだけを流し読みしていただくのもいいと思います。

(1)AとBは、「反意語」というよりも、むしろ「表裏一体」であるらしい。


 写真のネガとポジが代表的な例。AからBへ、BからAへの移行が、ほぼ瞬間的に可能であるという特徴を持つ。また「一瞬にして自分を変える」「ポジティブをネガティブに転じる」に類似した、ある種の分野で用いられているレトリックもある。この中に含めてよさそうなペアの候補としては、愛と憎、快と不快、「いや=だめ」と「ええ・はい=いいわ・いいよ」、幸と不幸、うれピーとかなピー、味方と敵、友達と見知らぬ人、痴漢とたまたま電車内で隣合わせた人、前進と後退、後ろからと前から、進化と退化、などが怪しい。

(2)AとBは、「反意語」というよりも、むしろ「範囲語」であるらしい。

 AとBの意味の素(もと)は、かなり混じりあっているにもかかわらず、言葉の響きによって、反対の意味であるという印象を招いていると推測される。つまり、構成要素が同じ「範囲=枠」の中で入り乱れている。構造的には、連続体という比喩も有効であろう。また、時間的推移により、構成要素間での位置関係が変化しやすい。また、そもそもペアが反意であるという根拠が薄い場合も、ここに含めていいと考えられる。変化に注目した場合には、プリズムのイメージが近い。見方や視点を変えると、異なったもののように知覚されるという特徴がある。正規品と類似品、オトナとコドモ、単数と複数、先生と生徒、悪人と善人、聖人と涜神(とくしん)者、聖人と俗人、超人とふつーの人、親と子、日本銀行と子ども銀行、本店の味と支店の味、すごい人と凡人、本物と偽物、本人と影武者、作者とゴーストライター、作家と編集者、本人と偽者、教科書と参考書、学校と予備校、天動説と地動説、「ヒトは空を飛べる」と「ヒトは空を飛べない」、幽霊の存在の肯定と幽霊の存在の否定、「(人間関係における)上 」と「(人間関係における)下 」、などが典型例かもしれない。この中に含めてよさそうな他のペアの候補としては、真と偽、善と悪、正と誤、聖と俗、ハレとケ、「本当です」と「間違えました」、「本気です」と「冗談です」、飴と鞭、などが怪しい。

(3)AとBは、「反対語」というよりも、むしろ「相対語」であるらしい。

 AとBとの間には、反対関係ではなく、相対的な位相が存在すると推察される。したがって、その階段のどこにいるかによって、反対関係とは言えない関係が生じる。多くの場合、測定器や測定用機器によって物理的に観察でき、かつまた数値化可能だという特徴を備えている。以下の典型例は、比喩としてではなく、物理的に確認可能な場合を想定していることに注意されたい。熱いと冷たい、暑いと寒い、右と左、無痛と苦痛(※SMではなく医学的意味で)、厚いと薄い、高いと低い、長いと短い、遠いと近い、SサイズとMサイズ、「でかい」と「ちっちゃい」、「これだけ」と「こんなに」、「あんだけ」と「こんだけ」、東洋と西洋、速いと遅い、すっぴんと厚化粧、など。

(4)AとBは、「対義語」というよりも、むしろ「大儀語」であるらしい。

 AとBの間に、対立関係ないし反対関係を見出すことは容易に見えて、実は難しい。哲学、論理学、倫理学、数学、ひいては言葉遊びやレトリックのテーマとして、しばしば論じられてきたが、結論は出なかったもよう。これから先も、結論は出ないと予想される。この種の議論は、七面倒くさく、骨がおれ、徒労に終わることが特徴。一部のマニアおよびオタク向け。脳科学に救いを求める向きもあるが、その有効性は絶望的。典型例は、存在と無、時間と空間、有と無、虚と実、戦争と平和、現実と非現実、SとM、現実と仮想現実、フィクションとノンフィクション、正常と異常、事実と虚構、嘘と真(まこと)、愛と誠(まこと)、沢田みかと沢田まこと、始まりと終わり、正気と狂気、事実と意見、身体と精神、平面と局面、点と線、直線と曲線、罪と罰、天国と地獄、真実と解釈、この世とあの世、オトコとオンナ、キミたち女の子とボクたち男の子(※ただし、ここではオスとメスという生物学的要素を除いた抽象語)、など。

(5)AとBは、「対義語」といよりも、むしろ「大疑語」であるらしい。

 大いに主観的な解釈が、さまざまな人たちによってなされている、大いに疑わしい上に、いかがわしいペアである。と解釈できる点が、疑わしさといかがわしさに輪をかけていると言えなくもない。(1)(2)(3)(4)、および次の(6)と重複する。典型例は、幸と不幸、前進と後退、真と偽、善と悪、正と誤、聖と俗、虚と実、SとM、現実と非現実、嘘と真(まこと)、愛と誠(まこと)、早熟と赤ちゃん返り、こむら返りととんぼ返り、などが大いに疑わしい。

(6)AとBは、「異義語」というよりも、むしろ「異議語」であるらしい。

(※両者の漢字の違いをよく見ていただきたい、「異議申し立て」の「異議」。)

 反対関係にあるのではなく、複数の利害関係者間の意見の相違や虚偽や策謀などが根底として存在する混乱や喧嘩であると推測される。悪態や罵倒で表現されるのが特徴。利害関係に基づくものであるために、しばしば同一ないし同様の表現として立ち現れる。例は以下の通り。「言った」と「言っていない」、「やったろー」と「やってねー」、「良かった」と「悪かった」、「関係ねー」と「責任とれ」 、「おまえが悪い」と「おまえが悪い」、「失礼しちゃうわ」と「失礼しちゃうわ」、「とんでもないわ~」と「とんでもないわ~」、「おだまり」と「おだまり」、「ケチ」と「ケチ」、「ドケチ」と「ドケチ」、「馬鹿野郎」と「馬鹿野郎」、「あんたが言うな」と「おまえに言われたくない」、「今に見ていろ」と「今に見ていろ」、「真似すんな」と「真似すんな」、「馬鹿」と「アホ」、「おこ」と「おこ」、「激おこぷんぷん丸」と「激おこぷんぷん丸」、「冗談は顔だけにしろ」と「冗談はよしこさん」、など。

(7)AとBは、反意語=反対語=対義語=異義語というよりも、むしろ「同意語=同義語」であるらしい。

 世界を「まだら」状にとらえて、まばらにしか知覚および認識できない人間が、長年にわたって使用してきたことにより、慣例的に反対の関係にあると事実誤認および錯覚されていると推測可能な言葉のペア。補完関係があるという見方も可能かもしれない。静と動、絶対と相対、客観と主観、客体と主体、知覚と錯覚、「分かった」と「分からない」、「知っている」と「忘れている」、「記憶にございません」と「存じ上げております」、きれいと汚い、毒と薬、可能と不可能、シャチョーとペーペー、はじめしゃちょーと林家ペー(※両者とも人間という意味)、林家ぺーと林家パー子、お偉いさんと市民、苦労人と元苦労人、玄人と素人、素人のど自慢と紅白歌合戦、濃いと薄い、あそことここ、善と悪(倫理的意味ではなく、この惑星に対しての人間の影響度)、神と悪魔(諸説あり)、異端と正統、温水と冷水、ヒトと動物、なまものといきもの、のろいとまじない(漢字にすると同じである点に留意されたい)、優と劣、高等と劣等、理系と文系、○○党と△△党、右派と左派、保守と革新、主流派と非主流派、○○党XX派と○○党□□派、など。

(8)AとBは、反意語=反対語=対義語=異義語というよりも、むしろ「別物」であるらしい。

 しかし、存在である以上、根本においては、つながっているとも推測される。ベクトルが違うのに、歴史的経緯、争い、錯覚、勘違い、事実誤認、陰謀によって、反対の関係があるとみなされているとおぼしきペア。典型例は、資本主義と共産主義、塩と砂糖、社会主義と共産主義、ウサギとカメ、SとM、毒味と薬味、白ペンキと黒ペンキ、○○教と△△教、○○派と△△派、○○流と△△流、「トイレが近い」と「トイレが遠い」、「口がうまい」と「口がまずい」、「鼻の下が長い」と「鼻の下が短い」、手芸と足芸、足芸と腹芸、腹芸と顔芸、「大きなお世話」と「小さな親切」、一時期のテレビと一時期のラジオ、鏡の中と鏡の外、北京と南京、東京と西京、大山くんと小山くん、ロミオとジュリエット、少年時代と少女時代、少女雑誌と少年雑誌、婦人服と紳士服、子供服と大人服、シロとクロ、黒子と白子、北酒場と南酒場、東武と西武、年末と年始、まなとかな、タロとジロ、などが、怪しい。とっても妖しい。

アンチ・アンチ

 以上、戯れ言はさておき、こうやって眺めていると、私はどうやらアンチ反意語派みたいですね。アンチ・アンチという感じでしょうか。平和主義者の同意語と考えていただければ幸いです。

 ですので、別に反意語に恨みはなく(苦手なことは確かですけど)、すべての言葉が愛おしいのです。あと、反意語の同意語は同意語ではないかなんて、このところよく考えます。

#ジル・ドゥルーズ #蓮實重彦 #助詞 #反意語 #同意語 #言葉 #冗談 #戯れ言