見出し画像

南京東路と私の道

 「デートしよ」

 彼女はそう言って、私の腕を引く。改めてそう言われると、なんだか恥ずかしいな。私はそう返すと、腕を掴んだ彼女の手を払い、指を重ねた。ついさっきまで部屋で当たり前にしていたことなのに、外で同じことをするのは不思議と勇気のいるもので、心臓の鼓動を早めながら、一緒にレストランへ向かった。

七欣天で食べた鍋。蟹も海老も大好きなので嬉しい。

 以前から彼女が勧めてくれていた、海鮮鍋のチェーン店で夕飯を食べた。上海と、その周辺の省にしかないようなのだ。注文は任せて、と彼女が言うと、立ち上がって店員に何かを聞きに行った。
 「あのね」
 戻ってきて彼女は言う。
 「今、店員さんに、老公旦那さんは辛いの食べられますか?って聞かれちゃった、びっくりした~」
 まだ付き合うってことさえ確定させたわけでもないのに、他人からは夫婦に見えているのか。自分の気持ちを他人からも認められた気がして、目の前の女の子が自分の妻だと思うとなんだか急に目を合わせられなくなって、そんな気持ちで食べた鍋はあまりにも甘すぎて、確かにもう少し辛くてもよかったかもな、そう心のなかで呟いていた。

 食後は外滩ワイタンへ向かうため、地下鉄に乗った。地下鉄を南京東路駅で降りる時、彼女は直接、私の手を引いてくれた。迷子になっちゃうと困るから、なんて言うけれど、彼女のほうから手を繋いでくれるのが嬉しかった。エスカレーターの速さがもっと遅ければいいのに、なんて思ったのは初めてだった。

 外に出ると人で溢れかえっていた。これがまさに「人山人海」ってやつだな、と頭の中でいつか覚えた単語を復習しながら、彼女と二人で呆然としていた。暫くそこに突っ立っていると、警備員が声をかけてくる。「君たち何やっているんだ你们在干啥、ここは動線だから移動しなさい」そう言われて、隣のショッピングモールの中へ入ることにした。

 「えへへ……你们君たちだって」
 彼女は照れながらそう言った。内心、自分も同じポイントで照れていたけれど、それ故に何も言えなかった。

 外滩に着くと、押しつぶされるのを心配するほどの人だかりだった。少し遠回りをして、人の少ない場所から河のほとりまで近づき、メディアでよく見るような写真を撮った。そういえば、君はあんまり写真を撮らないよね。そう聞くと、彼女はこう答えた。

ここから視点を少し左にずらすと、よくメディアで見る上海の代表的な写真になる。

 「私、写真って撮るのも撮られるのも嫌いなんだよね」
 じゃあ、ちょっと避けて歩こうか。すぐ前にカメラを構えた人がいたので、彼女にそう伝えた。
 「ううん、直接被写体になるのは嫌なんだけど」
 「誰かが撮った写真の中で、風景の一部になるのは好きなの。撮った人は気づかなくても、私たちが今こんなことをしていた証が、どこかで残るから……」
 彼女がそう言うと、私の左手に籠もった温度が、いくらか上がった気がした。

 帰り道、歩きながら私は思う。魯迅先生が言っていた。本来、道なんてものはなくて、人の歩いたところが道になるって。私はずっと疑問だった。それは逆に言えば、一人で苦心して道を拓いても、意味がないってことなんじゃないか。自分の他に誰も歩かない道なんて、道とは言えないんじゃないかって。その答えはわからない。だけど今、彼女が私の道を歩いてくれている。たとえ短い時間であっても、確かに歩いてくれている。彼女の存在が、私の歩いてきたところを、道にしてくれたから。彗星のように、一瞬の交わりだったとしても、私の心に水をもたらしてくれたから。だから、もう少し、歩き続けてもいいかな。そう思える。


この記事が参加している募集

#夏の思い出

26,446件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?