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置き換わる世界

 過去の自分にとって、東京はトウキョウだったし、京都はキョウトでしかなかった。日本語と、そこそこの中国語と、ほんの少しの外国語を覚えた今の自分には、東京はドンジンだし、京都はジンドゥーでもある。キョウトではなくジンドゥーと読んでしまうと、京都から京都感が失われる感じがする。京都のあの、雅で煌びやかで、同時に落ち着きと静謐さを兼ね備えていて、それでいてなんとなく陰険でねっとりしたあの感じ。ジンドゥーと聞くと、この街から特別感が割り引かれて、ドンキホーテで売ってるようなどこにでもある退屈な地方都市に成り下る。逆に、ドンジンはなんだか重そうだ。中身が詰まっている感じ。トウキョウという音がもたらす軽薄で期待に満ちていて空虚な印象はドンジンにはない。まあ、それも南アフリカにまで吹き飛ぶ大阪(ダーバン)に比べたら些細なことかもしれない。

 バンコクよりクルンテープがしっくりくることもある。ウラジオストクがヴラジ+ヴォストークという構造だと知ってからは、ウラジオと略すのに違和感ありあり。クアラルンプールもKuala Lumpurという組み合わせと知ると、クアラルン・プールという切り方で言うのはなんか気になる。しかし、これらは単に現地での言い方や言葉の仕組みを知っただけで、言葉そのものから受ける印象までは変わらない。そこはやはり、同じ漢字文化圏である中国と日本の特別な関係性があってこそ、日本の地名を中国語で読んだときだけに感じるものなのだろうか。

 自分の過ごした世界が中国語の普通話に置き換わっていく。ただ読み方が変わるだけで、自分の中のイメージにまで浸食してくる。その時点でもう、平行世界への分岐が発生して、元の世界には戻れない。意味が重なり合う世界になる。逆に、日本語を勉強した中国人は、中国の地名を日本語で読んだとき、同じような影響を受けるのだろうか。テンシンといえば甘栗と天津飯だし、無錫はなんかむしゃくしゃするようになってしまうのかな。
 池袋をイケブクロと読めば埼玉県民が集まってくるあの街だし、チーダイと読めば北口のチャイナタウンになる。早稲田も同じ。実態があると、スポットライトの当たり方が変わる。魯迅先生が言っていたように、もともと中国なんてものはなく、中国人が多くなれば、そこが中国になるのかもしれない。




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