恋愛成功の心得(1935年)

三井善太郎「夫婦和合家運繁栄の秘訣二百十ヶ條」(普及社)より抜粋


第一條 恋愛は一生涯の事業である

年に二回、陽気の変わり目ごとに行われる猫の恋の如きものは恋愛ではない。恋愛の花には結婚の実が結ばれなければならない。だから恋愛は一生涯の事業だと云うのも、決して奇を衒って云うわけではない。その恋愛、果たして成功なるや、不成功なるやは、二人が死して、いよいよ棺を蓋(おお)って後に判断すべきだ。

第二條 恋愛は盲目なるべからず

昔から「恋は盲目」だと云う。黒ん坊の奴隷が女王クレオパトラに恋をしかける小説の中での話のように、片恋に焦れ死ぬのはその人の勝手と云えばそれまでだが、浮気、色気の沙汰ならいざ知らず、結婚の前提としての真面目な恋愛の場合には、その第一條件はお互いの調和である。恋は盲目なるべからず、無理のない恋愛が理想的な恋愛である。

第三條 恋愛と友情とを区別せよ

友達の我儘は大目に見て許せる。しかし、我儘な妻、あるいは夫と毎日朝から晩まで鼻を突き合わせて暮らしているうちには、堪忍袋の緒も切れる。だから、異性の親友として好ましい相手でも、その友情をそのまま恋愛に転化させることが出来ると思ったら大変な間違いだ。それをごっちゃにする人には、後からすぐに後悔がやってくる。

第四條 恋愛と浮気心はまったく別物

電車の中で会った人にも、往来で目にとまった人にも、一寸好ましいと思う人があるものだ。所謂「一目惚れ」とはそのことだ。しかし、そんな浮気心と恋愛とを一緒にすると、飛んでもない間違いのもとになる。一夜にして咲く花はまた一夜にして散るものだ。恋愛の花は散れば、必ず悲劇になる。本当の恋愛のためには、そんな浮気心はおさえつけねばならない。

第五條 胡蝶の如き恋愛専門家に気を許すな

自分の浮気心をおさえるとともに、また相手の浮気心を見破るだけの用意がなければならない。胡蝶の如く、花から花へと舞い移る専門的恋愛家に気を許してはならない。少なくとも一年間は交際してみよ。そのうちに、もし相手が浮気者なら、厭きて他の花に舞い移ってしまうであろう。

第六條 恋愛の要求には簡単に応ずる勿れ

結婚生活に入った後に、こんな人とは思わなかったと、愚痴をこぼす位馬鹿な話はない。それは、相手の恋愛の要求に簡単に応じたその人の罪である。夜店の品物を買う時ですら、品物の吟味が必要である。買って帰ってから、すぐ何んだつまらないと、後悔するような品物を、商人の口車に乗せられて、うかうか買ってしまうような馬鹿な真似をする勿れ。

第七條 自分一人を恋していると自惚れるな

彼女または彼が自分一人を恋していると自惚れたら、大変な間違いである。そんな気持ちでいれば、相手も「何んだ」と云う気になる。むしろ、世の中には自分よりもすぐれたものは沢山いるものだと思うべし。その大勢の中から自分一人を選んでくれたことに対して感謝の気持ちをもち、その心持で生涯相手に対すべきだ。

第八條 恋愛にも試験時代が必要

恋愛は一生涯に一度のものだ。だから、人はたった一発きり弾を用意せぬ狩人のような慎重な態度が必要だ。これぞと思う相手を見て、その貴重な一弾を発射すべきだ。だがその前に、相手の人格をあらゆる方面から注意深く観察するための永い試験時代がなければならない。

第九條 恋愛にも年齢あり

文豪ゲーテとかストリンドベリーとかは老年になってから、まだ二十にもならない少女を恋した。いくら相手が彼らの如き大文豪でもそんなお爺さんでは少女の方で問題にしなかったのは当然だ。また例え、少女の方で老人の真情に同情して目出度く結婚生活に入ったとしても、その結果はどう考えても不幸だったに相違ない。恋愛が結婚に行きつくものである以上、やはり年齢のことについても考慮するのが当然である。

第十條 恋愛の経験は尊からず

何事についても経験と熟練ほど尊いものはない。しかし恋愛だけにはこれは例外である。恋愛の経験は少ないほど尊く、また熟練をつまぬほど尊い。いな、恋愛の経験はその将来の夫または妻に対する唯一度かぎりのものであってほしい。

第十一條 恋愛保菌者に近づくな

病気には、一度それにかかったら二度とかからぬ免疫性のものと、一度かかった人ほど再びかかりやすい業病とがある。恋愛病もその業病に似ている。それには予防注射も発明されない。うかうか近よると感染する恐れがあるから、恋愛病の保菌者に近づく時は充分な用意が必要である。

第十二條 恋人を買い被るな

「恋愛論」で名高いスタンダールも「恋愛の結晶」と云うことを説いている。平たく云えば「あばたもえくぼ」と云うことで、相手のくしゃみの仕振りまでも何となく嬉しいと云う心理である。これが一朝恋の熱度がさめかかってくると、相手のくしゃみの仕振りまでが何となく癪にさわると云う心理に転化するのであるから恐ろしい。だから相手を悪く悪く見積もるほどではなくても、冷静な批判的な態度を失ってはならない。そうした態度がなければ、後になって必らず後悔するはめになって来よう。

第十三條 恋人に自分を買い被らせるな

自分の恋する人の前では、誰でも無意識のうちに自家広告をしているものだ。自分を出来るだけ相手に気に入るように見せようとするのは人情である。けれども、恋愛は結婚への関門であり、結婚生活は一生涯のことだから、後で段々箔がはけて来て地金が出て来るようになると相手は失望し、結婚生活が面白く行かないことになる。だから、自分の美点とともに、欠点を理解させることも忘れる勿れ。

第十四條 結婚争闘は禁物なり

自分の他に競争者があることを発見した場合には、ただちにあきらめて舞台裏に引っ込むことが賢明な態度である。「あきらめ」と一口に云えば簡単だが、これが実際にはなかなか困難なことは云うまでもない。しかし、もし競争者が自分以下の者なら、そんな者を相手にしている自分の恋人を「見損った」とあきらめるべし。またもしも競争者が自分以上の者ならば、そこへのさばり出ることは、すなわち恋人の幸福を妨害することだ。勝つにしろ負けるにしろ、結果の面白からぬは明らかなことだ。恋愛小説によく出て来る三角関係を味わってみるべし小説としてのん気に読んでいる時には面白くもあろうが、実際自分がその渦中にあるものだとして考えて見たら、まったく御苦労千万とも、馬鹿らしいとも何とも云えぬ余計な閑つぶしであることに思い当たるだろう。

第十五條 恋愛も生活から

生活を考えぬ恋愛は有閑紳士有閑婦人の恋愛である。遊戯に過ぎない恋をして、恋人同志がめいめいの家を飛び出して、温泉場などを嬉々として遊び廻っているうちに金に窮して、遂に死を計った等と云うことは三面記事の材料として、新聞記者を喜ばすだけの価値きりない。まづ自分の生活、相手の生活を考えよ。生活の中から生まれ出た恋愛こそ本当の恋愛である。

第十六條 恋人の第一の資格は飽きの来ぬ人たること

「目についた女房そろそろ鼻につき」―それでは困る。一生涯恋しても飽きの来ぬ人。いな、永く一緒に居れば居るほど、ますますよくなって来るような人でなければ真面目な恋愛の対象にはならない。それが恋人の第一の資格だ。

第十七條 誰からも好評な人を選ぶべし

あの人は皆に誤解されているが、自分だけはあの人の真価を知っているなどと、自惚れる勿れ。それは恋愛のために正気を失った場合に誰でも云うことだ。もとより、世間の評判などは極く皮相的なもので、そんなものにとらわれることは間違いだが、その人の兄弟姉妹とか、極く親しい者がその人をどんなに批評するかを注意しなければならない。その人が日常親しく接触している人の誰からも好評であれば、その人を恋人に選んで間違いがない。

第十八條 恋愛の陶酔に正気を失う勿れ

恋愛と生活を取り換えっこしてはならぬ。一生涯恋愛の陶酔の中に生活することが不可能であるのはわかりきったことだ。だから一時の感情のために生活をめちゃめちゃにしてしまっては何にもならぬ。生活を豊富にするのが恋愛である。生活を破滅させるのは頽廃である。恋愛の陶酔の中にも正気を失わぬことだ。

第十九條 結婚に到らぬ先に恋の油を燃やしつくすな

金銭の浪費は生活を破綻させ、愛情の浪費は恋愛を破滅させる。恋愛が一時の遊戯に過ぎないものならそれでもいいが、しかし恋愛は永い結婚生活の大道につづく関門であることを忘れてはならぬ。熱愛しすぎた同志が結婚生活に入る頃にはそろそろ恋愛の倦怠期になっていたりするようだと、その人々は味気のない結婚生活を送らなければならないことになる。西洋の諺で「結婚は恋愛の墓」と云うのも、このことを云ったものだ。

第二十條 打算する人に許すな

理性と打算とを混同するな。理性的でなくてはならぬ。しかし打算的な恋愛をする人に決して許してはならぬ。算盤がはずれた時には恋も終わりとなるようでは言語道断である。理性はある場合には自己犠牲をさえ要求するものである。

第二十一條 親しき仲にも礼儀あり

恋人同志の間に遠慮は野暮の骨頂である。遠慮がなくなることに比例して親密の度はまして行く。しかし礼儀と云うものは遠慮とは全く性質の異なったものだ。相手の人格を無視した言動や、自分勝手の要求ばかりしているようでは相手を憂鬱にさせ、やがて厭きられる。それをしないのが礼儀である。

第二十二條 人に疑惑をもたせるような言動は禁物

智者も学者も踏み迷うのが恋の路である。賢明な人でも恋人のこととなるとつい熱して来て、傍の人が「はてな?」と思うような態度を見せたりする。しかし、こんなことは百害あって一利なき余計なことだ。成功すべき恋愛が、傍から水をさされて失敗に終わるようなことが起こるのは、往々こうした軽率な態度に原因しているのだ。

第二十三條 口達者には警戒せよ

新聞に時々現れる所謂「色魔」の特徴は口の達者なことだ。自分はこれこれの大学の教授だとか、自分の父は華族だとか、自分は有名な芸術家だとか、言葉巧みに法螺を吹いて相手を煙に巻いておいて、巧妙に魔の手を伸ばすのである。まったくの法螺ではないとしても、とかく自己広告をしたがる者には気を許してはならぬ。そう云う種類の者には健実な人物がいたためしがないのである。

第二十四條 不平家に警戒せよ

何にでも不平を抱く人がある。そんな人物にかぎって天下国家の問題で大きな不平を抱くと云うような気概はなく、自分の家庭、自分の友人、自分の地位に対して常にぶつぶつと不平を呟いているもので、そんな人物と結婚したが最後、箸の上げ下げにまで文句を言われなければならない。朗らかな家庭生活なんかは望むべくもない。深く警戒すべし。

第二十五條 道ならぬ恋は禁物

道ならぬ恋のために身の破滅を招いた人々の記事が、毎日の新聞紙上から絶えたことがない。まさか自分がそんなことをするはずが無いとは誰もが思うだろうが、運命の戯れは神秘である。誰も自分の将来を知っているものはない。しかし、どんな機会に、どんな立場におかれようとも、「道ならぬ恋はすまじ」と固く心に銘じておけば、他人を苦しめ、自らも苦しむこの地獄からは救われるであろう。

第二十六條 石橋もたたいて渡れ

恋愛に大胆勇敢は禁物である。石橋も一度たたいてみてから渡る小心と臆病が必要である。なぜなら恋愛は一生涯に一度たるべきもので、その失敗は一生ついて廻るものだからだ。余りに臆病なために一度の機会をのがしても、再びよりよい機会が来ることもあろう。しかし、用心を欠いたために、一度の機会に失敗してしまったら、とりかへしがつかぬ。

第二十七條 子供たちに聞かせても恥のない恋愛を

同じ恋愛小説でも、その筋の命で発売を禁止されるような醜いものもあれば、学校の教科書にも使用されるものもある。出来るならば、自分の子供たちに語って聞かせても恥じないほどの、美しい無理のない恋愛から、結婚への筋道を通りたいものだ。

第二十八條 明るみに出されても恥なき恋は最上の恋

ガラッと障子を開けられて、アッと逃げ惑うような恋はなすべからず。明るみに出されても、恥なく、堂々と大手を振って通れるような恋は最上の恋だ。恋愛に、無理もなく必ず成功する秘訣は、こうした恋をすることだ。

第二十九條 度を過ぎた期待を持つ勿れ

「これほど愛しているのに冷淡だ」とか、「あれほど愛してくれたのに、今の冷淡さ」とか云う愚痴が出るのは、相手に度を過ごした期待を持つためだ。いつも強度に熱していれば、電線だって切れるではないか。たまには息を抜くのもよろしい。「恋愛にも休日あり」とはフランスの詩人の言葉だ。
だから、ほかに気が移ったというようなことならいざ知らず、たまに恋人が冷淡な態度を見せることがあっても、一一取り上げて問題にしてはならない。余り五月蝿(うるさ)くすると、かへって悪い結果を招くものと知るべし。

第三十條 両天秤にかけられるな

何事でも競争者があれば、自づと熱中したくなるのは人情だ。たださへ熱中し勝ちな恋愛となると、この傾向は最も激しい。だが、「あなたばかりが私に恋しているのではない」などと、両天秤にかけられて、焦ったりしてはならぬ。焦ればつまづく。だから君子危うきに近寄らずだ。そんな場合には黙って身を退いてしまうのがあなたの為であることが、後になってから必ず思ひあたるでせう。

第三十一條 不自由な恋もまたよし

「まああんな天使のような娘が私を騙していました」と愚痴をこぼす神のような親がある。それも恋人に会いたい、会った上は片時もそばから離れたくないと云う、止むに止まれぬ娘の恋心からだ。しかし家庭が厳格だったり、人目の関があったりして、恋愛のためには不自由な境遇も、必ずしも呪うべきものとは云えない。そうした不自由な恋愛を通過した結婚生活においてこそ、誰にも遠慮しない楽しい家庭の味が一入(ひとしお)なのだ。

第三十二條 最悪の場合にも備えよ

「夜半に嵐の吹かぬものかは」である。名船長は平和な海を航海する時にも、嵐が突発する時の用意と覚悟を忘れない。それでこそ船を遭難から救い出すことが出来る。最悪の場合に徒(いたずら)に狼狽するようでは、船を暗礁に難破させてしまうだろう。恋愛にも名船長の用意と覚悟が必要だ。

第三十三條 余りに甘き恋人は反動化する

五月蝿いほどお世辞のよい人がある。靴の紐まで結んでくれるし、ステツキまで持たしてくれる。その余りにも甘い恋人は結婚生活に入ると必ず反動化するものだ。と云うわけは、そう云う娘さんにかぎって、感情的で機嫌買いであるって、気に入らない点がぼつぼつ見えて来ると、ヒステリーを起こしやすいからだ。いつまでも平和な結婚生活を楽しみたいと思うなら、この種の人には注意して近づかなければならない。

第三十四條 押しに負けるな

石に噛りついてもお華客(とくい)をつくらうと云う御用聞きのしつこさをもって、手をかえ品をかえ恋の押し売りをする人がある。この押しの強さを、真面目さを取り違えて、ついホロリとして、しまひには押し切られてしまう人がある。あとになって、それを残念がってももう遅い。

第三十五條 見ぬ恋は後悔の原因をつくる

よく文学少女などが、一面識もなく、その人柄も知らぬ芸術家に、その作品なり、名声なりにあこがれて、まだ見ぬ恋をすることがある。それと同じ筆法で、往々未婚の紳士諸君が某家の令嬢とか、あるひは某ダンスホールのダンサーとかに、人の噂を聞いただけで、まだ見ぬ恋をして、相当悩むことがある。しかし噂と現実とはいつも食いちがっているものだ。間に立つ人がいて、この恋が成功したとしても、決していい結果が生まれないのも当然だ。

第三十六條 手形のインフレはなすまじきこと

財政の破綻はインフレーションから。商人の失敗は不渡手形の乱発から。恋愛においても、恋人を喜ばせるために、結婚してからのことについて余りにも多くの約束をするのは失敗の因である。決してそれが心にもない嘘を云ったわけではないにしても、いざ結婚してみると、なかなか思ったやうにならないのが常である。毎週一回づつ温泉に行こうと約束しても、それがどうして一年に一回も実行できないことになる。その結果は「騙された」の「裏切られた」のと云う騒ぎになる。だから、恋愛時代には不渡手形を乱発して、余りに大きな期待を持たせぬがよい。

第三十七條 人形を愛する勿(なか)れ

人形のやうな可愛がりかたをするならば、愛される方でも物足りないものだ。愛する方でもやはり物足りない。永い間には寂寞(せきばく。ものさびしく静まっていること)を感じはじめる。こつちで愛するだけのものを愛し返すことの出来る恋人を選べ。その張り合いがあつてこそ夫婦の愛は永つづきするのである。

第三十八條 容色自慢の人をもつな

どうせ恋人とするからには、少しでも美しい人がよい。だがその美を意識して鼻にかけるような人を恋人にもつな。また決してその美を意識させるようなお世辞も云うべきではない。はじめのうちは成功しそうに見えた恋愛が、次第に結果がよくなくなっていく原因も、その辺に根ざしていることが往々にあるのだ。恋愛の妙味は人間味のうちにあるので、決して美の中にあるのではないのだから。

第三十九條 文化的な恋人は避けたきこと

勿論時代おくれの恋人も困るが、余りに文化的な人を恋してはならない。一枚三十何銭の座布団ですむところをテーブルと椅子のセットの一組何十何円也のものでなければいけないことになり、郊外の野原をぶらぶら散歩するなんてことは退屈だから銀座へお茶を飲みに行こうと云うことになる。万事がこの調子だと、単に金がかかってやり切ないと云うようなことばかりではなく、こうした上面ばかりの浮つ調子の文化の中に、生活の真実味を解消してしまうやうな結果になって、一生浮かばれないことになる。

第四十條 趣味に取り入る恋は曲者

音楽がお好きですか、それともハイキングですかと、相手の趣味に探りを入れて、自分も同じ趣味であるかのやうに見せかけるのは、恋愛技巧家の常套手段だ。とかく同じ趣味からは恋愛に入り易いからだ。しかし、趣味から入った恋愛は、結婚生活の地味な苦労に耐え難く、そこでたちまち破れやすい。まして、付焼刃の趣味を利用して恋人に取り入ろうとするやうな人は、敬遠しておくのが安全第一だ。

第四十條 (何故か番号が被ってる)卑劣な手段を恥じざる恋を許すまじきこと

目的のためには手段を選ばずと云うことは恋愛の場合には真理ではない。その手段によって、その人柄がおのずとわかるもの。途中に待ち受けて話しかけたり、時ならぬに恋人の居間に侵入したり、または所謂「つけ文」(ラブレター)をしたりするやうな非常手段をとる人に、熱心の余りだと同情すると馬鹿な目を見る。恋愛のためにどんな手段をも恥とせぬやうな人物は、他の場合にもまた手段を選ばぬ恐る可(べ)き人物である。

第四十一條 世間体を気にしすぎる恋人と選ぶまじきこと

父が便所掃除人夫をしているのに市の衛生課の役人ですと云ったり、大學の小使をしているのに、研究室に出ていますと云ったりするやうな人を恋人に持ったら、一生涯の不覚だ。何事も世間体世間体で、いつも嘘と誤魔化しで固めた紋付袴でびくびくと世間を渡らなければならない。およそ朗らかさとは縁のない生活だ。

第四十二條 恋愛は内密に、結婚は大っぴらに

草花でも双葉のうちは風の当たらぬ苗床で育てねばならぬ。しかし、いよいよ花を咲かせ実を結ばさせる時がくれば、適当な日光と風がなければ生育しない。恋愛もまた草花のやうに微妙なものである。

第四十三條 恋愛と結婚とを混同するな

古人曰く「結婚の美酒は貞操の栓によって味を保つ」と。恋愛時代において、余りにも早く栓を抜くと、結婚時代になって味も香もない気の抜けた酒を飲まねばならぬ。二度と訪れぬ青春の香に酔いたいのは誰しも同じだが、そこが忍耐の仕所だ。

第四十四條 相手を不幸にするな

相手を不幸にしておいて、どうして自分一人が幸福でいられやうか?例え断腸の思いをしても、絶たねばならぬ絆は絶つべきである。先生と生徒の場合、主人と召使の場合、道ならぬ道の場合等、無理な恋愛はともすれば相手を不幸にし易いものだ。

第四十五條 先入観に捉われるは愚なり

某博士令嬢、某大将令嬢と聞いただけで、もうすぐにその少女を有難(ありがた)がってしまう軽率な人がいる。そんな人にかぎって、その少女の実質がどんなものだか、よく見極めもしないで、無我夢中で恋愛に焦る。その結果は一生涯の悩みの種を背負い込むことにならう。彼女が案外にも低脳であったり、不良少女だったりすると云うのは極端な例だが、さうでなくっても、人格、教養、趣味の点で、自分の相手としてどうかと思うと、後になって次第に気づいたところで後の祭だ。こんなことは誰でも心得ていると、云ってしまえばそれまでだが、それでいて、案外誰でも簡単に誤魔化されるものだ。

第四十六條 圧迫される恋人を持つな

いつも、圧迫されているやうでは生活が面白くないことは理の当然だ。のみならず、意気衰えて伸びる可(べ)き才能も伸ばすことが出来ず、発展すべき事業も行き詰まりとなる。極度に気の強い者、才智弁舌が自分よりも優れていて、常にやりこめられてばかりいるやうな者、それから体力の点でも自分を圧迫するやうな者とは恋はすまじきことだ。

第四十七條 良き友達をもたぬ恋人は面白からず

「朋友の善悪によって、その人を知る」とは古い諺だが真理はいつまでも真理だ。酒が嫌いな癖に酒飲みの友達とバーばかり廻り歩いているわけはない。相手の口からの出任せを信ぜず、そつとその友達を観察すると化の皮はすぐはげる。

第四十八條 「女性の味方」を信用するな

私は女性の味方ですなどと御婦人の前で臆面もなくまくし立てる人ほど当てにならぬものはない。本当の女性の味方ならば、婦人の前でぺらぺら喋るようなことはしない。黙っていて知らぬ間に親切を尽くしてくれるものだ。自称「女性の味方」にかぎって我が侭で不親切な男が多い。

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