自分自身を律する言葉たち
私がよく使う言葉や価値観をここに置いておきます。
・同じ経験をしたことがないのに「わかった」気にも「わからない」気にもならないこと
まずは相手の〝話〟を聞き、相手の〝気持ち〟を聞き、その上で「私はそんな立場ならどんな気持ちになるのか」を〝想像〟し、その上で相手を〝思いやって〟意見を述べること。
けれど、同じ経験をしたからといって〝同じ気持ちにはなれない〟
どんな場合でも「人の感覚は人それぞれ」であることを忘れないように。
・どんなに仲が良くても、手助けをしすぎないこと、相手の失敗を待つことも大事
今は自分の言ったことが理解されなくても、いずれ理解される日が来るかもしれない。
けれど、逆に自分が相手に思い知らされる日が来るのかもしれない。
傲慢にならないように、相手を傲慢にしないように、それらを忘れてはならない。
・どんな物事にも自分の実力の方が上だと思わないこと
上下左右に他人はいない。
そこにいるのは自分自身だけ。
他人に気を取られた時、いつの間にか自分自身が磨かれないままだと気づく。
・他人を否定をすることは、自分を否定すること
苦手や嫌いはあっても、否定はしないこと
人の数だけ、物の数だけ正解がある。
自分は他人と同じ失敗をしていないからと、他人を非難し嘲笑えば
自分が他人と同じ失敗をした時に、同じように他人から非難され嘲笑われる。
その時に自分が嘲笑った他人の気持ちがわかるという皮肉になるのだから、決して否定はしてはいけない。
・地位と金と経験は人を頂上へと登らせる分、雲がかかりやすい
上にいる間に、下では新たな植物が咲いているかもしれないことを忘れてはならない。
大事なことは頂上に辿り着くことよりも、その渦中でみた景色と、自分が感じた痛みや苦しみや喜びであり、小さく見える家や草花よりも、足元にある植物や生き物や石ころは何が大切であるかを教えてくれることが多い。
・無知を指摘し笑う人は、自分の無知を恐れている
人は褒められるのは好きだけれど、指摘されるのは好きではない。
自分は指摘されたら嫌な気持ちになりながらも行動を改め、褒められたのなら素直に喜び、褒められた部分は継続できるような意識をしたい。
けれど、褒められたからといってそれが特別だとは思わず、常に多くの人の素敵を探せる人になり、自分もそんな風になりたいと向上しようとする意識を持つ。
・嫌な人がいた時は「たられば」を使う
あの人はこうだったからああできなかったのかもしれない。
そう思えば、大抵のことは嫌な人ではなく自分とは違う【感覚】の人である。
・人は手っ取り早くステータスになりそうなものから着手するが、人気もなければ、何も役に立たないかもしれないけれど好きで真剣に継続してやっている物事の方が実は重宝される場合がある。
けれど本当に誰かが欲している何かを見つけられた時の方が、動き出す拡大する物事は大きい。そしてその物事が道徳的に素敵かどうかは別である。
・人はいつでも特別を目指すが、生まれた時から特別を持たされている。
けれど、基礎や基盤が出来ていない人間は特別を生かしきれないこともある。なにも響いてもらえないことも多い。
・誰かがやってくれるからという考えは、1人になった時を想定しているのかどうかが重要だ
・どれだけ他者からあなたは正しいと言われようと、自分の方が彼らより正しいと思った瞬間間違いに変わる
・褒める時も慰める時も、結果よりも過程を見る
自分の思い通りにいくことはほとんどない。だからこそ周囲に目を配り、周囲で何が起こっているのか観察し、流れを待つことも大切だ。
・自分でコントロールできるのは自分で完結する行動のみ
・他人がこうしたいと言えば受け入れよう。それから自分がこうしたいと思うことも受け入れよう。そうしてやっと天秤が機能する。
話し合う時は新しいものを生み出すとき。
その話し合いは、自分の意見が否定されているわけではなく、混ぜ合わせて新たなものを生み出そうとしている。
生み出す時はチクリと痛いものだけれど、そういう時こそ経過と結果よければ全てよし。
本当に大事なのは、いい物を皆で作り出そうとする意思と過程だ。
・プライドとは、誇りや自尊心のこと
いらないプライドは捨ててしまえ。
でも本当に大切なプライドはなんとしてでも護る。
私は大切に思う人、誇りに思う人に対して全力で護れる人でありたい。
その当時の大切な人や自分がしにもの狂いで頑張って努力してきたことや、向き合っていた物事を絶対に否定はさせはしない。
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あまりに人生やめたくなることが多かったので、美味しいと思えるご飯をお腹いっぱい食べたり、ぱっと見ボロボロで不潔そうに見えない服を着られたり、毎日メーターを気にせずに温かいお湯で体を洗い流せたり、体温調節できる裕福さがあって、好きな人とお話しをしながら眠れる日々が続くと「こんなに幸せで怖いな」って思うんです。
またいつか壊れてしまうかもしれないな。
また立ち行かなくなるかもな。
また大切な人を失うかもなと思うと、怖くて全身が震えて止まらなくなるんです。
幸せで嬉しい涙と、今までのトラウマとで、不安が押し寄せて、矛盾した感情が私の全身を震わせるんです。
身に余る幸福だと心から思うんです。
そうすると、ごめんなさいありがとうって繰り返したくなるんです。
諸行無常のこの人生、大切なものに囲まれて生きていくことが、如何に困難でありがたい状況なのか、目に見えるように全身を這って行くんです。頭のてっぺんからつま先まで、震えが駆け抜けていくんです。
この幸せを手放したくないから、私は今を精一杯後悔しないように生きなければと、強く自分自身に祈ります。
それは一種の苦悩であり、苦行であるように感じるけれど、もしも私がこの命を燃やし切る時に、自分なりに悔いなく精一杯大切な人を、物事を、愛せたんじゃないかと思えたら、後悔なんて何一つ残らないと思うんです。
でも時間というのは残酷で、いつか私が幸福まみれの時間を長く過ごしてしまったら、この全身で感じる恐怖であり至高であった幸福を忘れてしまうのだろうと思うのです。
だから忘れないように、何度でも何度でも思い返します。
私はこの矛盾した幸福こそが、私の人生を幸福に至らしめる感情だと思っています。
誰かの幸福は、私にとって幸福ではない。
私の不幸は、誰かにとっての不幸ではない。
誰かの自己犠牲は、私にとっての自己犠牲ではない。
私にとっての限界は、誰かにとっての限界ではない。
誰かの神様は、私にとっての神様ではない。
でも、私が感じた痛みや苦しみ
誰かが感じた痛みや苦しみは無駄にしたくない。
今を生きる苦痛を、幸福を、悲しみよ。どうか。
未来を生きるためのエネルギーに変えて。
誰かの痛みが聞こえるように。
そのためなら何度でも何度でも、自戒します。
何度でも何度でも、自分を嫌いになって、また好きになるための努力をします。
どんな結末であろうと、過程は最高であるように。
REN
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