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目の前のPCと赤の他人と

明日あたりにやっとこさ一人暮らしのアパートに戻れるというのに何も準備していない正午15分前で本日からこんにちは2月


私は精神科に通院と入退院を繰り返し始めてから8年ほどになるのだが、様々な十人十色以上の医療者や職員とコミュニケーションでの紆余曲折を経験した

診察室や病棟で朝からPCと患者と言う名の赤の他人と対峙している医療従事者は何を思うのだろう

極論にしてしまえば同じ人間で『 仕事 』として成立させているわけでその先の感情があるかどうかは正直なところ気にすることではないことを承知で考えてみる


友達でもない、本来なら関わりのない赤の他人に仕事といえども職業として自己犠牲に近く、そして責任が重すぎるような仕事を憧れややりがいだけでこなすことは並大抵ではない、ましてや精神科という様々な背景や感性が溢れ、ぶつかり合う精神科に何を思うのか

従事している職員も様々な人生や家庭などがある中で世間的に特殊である『精神科』は実習もだが、その実習を経て入職するのにも思うことや少なからず偏見もあると思う

各々で  ” 精神 ” に惹かれることや興味を持つきっかけや適性があったのかもしれないが、なんというかそれを選択するにあたって、そして入職してみて何を思ったのか


私は入院や外来受診の際にある程度信頼関係が築けた際に看護師や主治医などに質問をする、シンプルに疑問と興味で実際はここまで深く考えて質問はしていないのだが


『 なぜ、精神科を選んだの? 』


いきなりこのような問いに若干驚きや戸惑いながらも優しい職員は照れながらも答えてくれる。あくまで私の通院先の外来や病棟の職員の話であるが

・看護師になった時の適性を考えた時に精神科が向いていた ・看護学生の精神科実習で興味持った・身体科よりも患者さんと関わる機会があるから ・自分自身も精神的に不調になった経験があるから ・調子が良くなかった患者さんが良くなって退院や社会復帰していく姿を見るとやりがいや嬉しさを感じる ・たまたま地元や近所に精神科あったから興味があった    etc...

と答える職員が多い。あとは学校で私の通院先を勧められて入職した、という職員や措置や応急も受け入れている病院でもあることから様々な症例が看れる、経験も積めるので早いうちに入職するのを決めて来ている職員もちらほらいる

あとは別の精神科から転職や他の科のハードさや向き不向きなどもあり心身的な理由で退職したことから精神科に来た人もいたり、元々看護助手で入職して看護師を間近で見ていて看護師になって戻ってくる人…など様々な理由で私の病院に入職した看護師もいる

医者や看護師にも様々な理由やきっかけがあることに気づくし、至極、人間故の興味や人生や職業のうちの選択の1つに過ぎないのかもしれないが、家族以外で様々な人の家庭や過去や環境に携わるのはどのような気持ちなのだろうか、仕事とはいえ精神科は特に《自他の境界》が曖昧だと厳しい世界ではあると個人的に思っている。他の身体科以上に体力より精神的エネルギーの消耗は大きいのではないか…

精神科に限らずだが、定期的な通院や入退院を繰り返すような患者には“医療従事者”に憧れやすいのは確かだ。身近な存在に憧れの感情を抱くのは自然な感情や経緯であるし、ホスピタリズムを来たしている人からしても不思議ではないとは思う。だからこそ憧れで就職しても人の命と密である“医療”“看護”“福祉”は憧れや資格のみでは成り立たないし、重いと言われれば重いのだが「患者の命」とともに「患者の内面・精神」までの責任が伴いながら自分の命と人生も家庭も背負う。様々な方面で命を預かるためリスクはとても重く思える。精神が安定している人でも他者の言動の1つや2つで感情や精神的にストレッサーになり揺れる人間の「心」とは聞こえが良いが『身体の精神』までをも考えなければいけない

精神科は特に医者や看護師が向き合うのは検査や数値では測れない判断できないことを患者という赤の他人とPCとにらめっこしながら向き合っていかなければならない

『人と関わる・話聞くのが好き』『過去を生かして支援したい』も立派な理由であることに異論はないが、その気持ちだけでなく精神的・心理的な基盤や軸がないと到底精神科における患者という他者の感性や人生に関わるのは厳しいように思える

私も過去に精神科看護師や心理士に憧れを抱いたことはあるが、ここ数年は「今世は医療従事者になるのは諦めてる」と周りに口々にこぼしている。今世の記憶があるかどうかはわからずとも次の人生では医療に携わりたいと思うので今世は今世を思うままに自分のできることをしながら生きるのみだ


楽しく生きたいね、自分が思う優しい世界でなくとも自分には甘いと言われても良いくらい優しくしたい、と思う彩璃なのでした


dy.いろどり