日本を覆うこの悪意の正体についての一考察

ちょっと、これについては、本当に一読をお願いしたい。本が苦手とかどうとかではなく。ご紹介いただく方がいたらご紹介して頂ければ、本当に幸いに存じます。

日本を覆うこの悪意の正体について、何となく懸念を抱く方に伝えたい事。

今回、私の書いた「呪詛とすそ」ってのは、これ、見知らぬ他人がばらまいた、ほんのちょっとの迷惑が、巡り巡って巨大化して社会を破壊していく、っていうプロセスについて書いているものだ。 「この程度の事は誰でもやってる、小さいことだ。」と何の気なしに行っていた、小さな悪事。

例えば、雨の日に、そこらに置かれていた傘を失敬して、チャリを失敬して、とか。 さて、そういう事は、誰しもが一度や二度ならぬ「些細な事だし」みたいに振り返らずに行ってきた行為だと思う。

しかし、自分が見えない所に起こる人間関係に、何らかの影響を及ぼす、という事についての重要な話だ。

「俺は人に恨まれるようなことはしていない。」とか「自分は嘘なんかついた事は無い。」と豪語できる人間の中に、過去にどれだけ、そうした”すそ”を一つも垂れ流さなかった人間がいようか、という事を思い出してほしいのだ。

これはオカルトなどの話ではない。
だから「すそ」というものは怖いのだ。

そして、その「すそ」が引き起こす、人間関係への負の連鎖が、見えない形で大きくなっていき「みんなやってるじゃん」「楽しければいいんだ」でやってきたことが、いつしか「負の念の巨大ループ」を構成していくというメカニズムを、それこそ、かなり古くから分かっていた、ということなのだよな。

当たり前だが、社会を構成している以上、人間が他の人間に対して何も影響を及ぼさない事は無い。いい事も悪い事も含めて、少しずつ積もり積もれば、社会に大きな影響を及ぼしていく、という事が、実に科学的な目線と考察で描かれていることに気づいて、私は感動しているのだ。

昔の人の叡智に学んだ。

だから、あなたの良心に少しでもその事を問いかけたくて、この話を届けてみた。 あなたのその行為は、誰も見ていなかったとして、どこにどのような形で届いていくのかを少しでも心致した事があるのかを。

ほんのちょっとの行動が、何かを間違いなく変えていくことは、確かにあるのだということ。

この話を読む読まないの問題ではない。

これほど聡明だった古代日本人たちの叡智と科学的な人間考察を「オカルト」の一言で片づけられるか、という事も含めて、見えなかった小さな善意も小さな悪意も、ほんのちょっとの事が壮大な善意と悪意に変わりかねない、という事を 「すそ」と 一言に残した。

明確な方向性を帯びた人の行為と、方向性を帯びる未満の行為との違い

自覚的行為の引き起こす因果だけでなく、見えない、あるいは、無自覚の行為が引き起こす因果、との違いを、きちんと彼らは理解して、捉えていたのではないだろうか。

もしかしたら、日本人たちは、この30年間、ずっと「無自覚な悪意」を社会に”すそ”として垂れ流し続けてきて、その集積が、人間社会の破滅に至るレベルを、社会的に実証してしまったのではないか?という事。或いは、戦前から引きずった負の連鎖が、もう一度、同じ形で社会を破壊してるだけではないか?

その事について、皆で一度、冷静に考えてみたいと思ったのだ。 いや、このことを、全世界の人間に向けて、論文で発表でもしたいくらいの思いに駆られているのだ。 Invisible Touch(見えざるタッチ)From God Or Devil とでも説明すればよいのではないか。 ”見えざる悪意のゲイン回路”への考察。

私、その事に気づいて”すそ”と一言に残した、太古の日本人にこそ、ノーベル文学賞とノーベル平和賞を、同時に与えたい気分にすらなってるんだけどね。 いや、マジで、誰も気づかなかったことに気づいた、あんたはマジで凄かったな。もはや、あなたが誰だったか、名前さえも残さずに消えていった天才。

天才の見つけた真理を、2000年後に逆の方向で証明しただけの事だ。今の現代日本は、ということなのかね。 見えざるほどの負の念を集めに集めまくって、悪意の念のゴミ集積所のようになってる世界を前に。

太古の叡智に、人知れず感動した夜だった。

しまったw 課金記事にしたかったが。

そんな事でなくて。 私から、一つの「すそ払い」をスタートさせてみたく思って、あなたたちの良心というものに、少しだけ問いかけたかったのだから、あまりに無力な私からの、ほんの小さな社会奉仕活動の一環です。

えーと。
やっぱり私は、ニューウェーブ戯作派なので、最後にちゃんと笑いとオチつけちゃったじゃんか!エンタメ!エンタメ!サービスぅ!サービスぅ!



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