令和における、正しい「反抗精神」のすゝめ
分かんなくも無いんだよな。急に90年代辺りから、一心不乱に他の事に目もくれず、ストイックに音楽やらを始めとするアートをやりだす人が増えて
「政治や社会に文句を言うのはやめて、自分のできることを一生懸命やっていくことが大事」
に近いことを言い出したのは。
そうやって、絵やら写真やら音楽やらに目もくれずに自分の情熱と努力を注ぐ姿に共感する人たちも増えた。人として誠実にアーティストの手本、みたいな感じで。
当然、そうした心情は理解できなくも無いのだ。けどさ。
それが「ロックやパンクが得意とした、時には政治にすら物申すような明け透けな物言いとか、皮肉な風刺」を殺してしまった事につながる。
そんな土壌に、民主主義の健全な議論など成り立たないはずなのだが。
ところが、そうした心情がえらく、それまでの「ロックの胡散臭い物言いにたいするアンチテーゼ」として持て囃された。
さぞかし、そうした「反逆や反骨」の姿勢に辟易していたのに違いないのだとして。
で、申し述べたいことは2つほどあってだな。
・・・その「政治や社会に文句を言うのはやめて、自分のできることを一生懸命やっていくことが大事」って姿勢。
言い換えれば
「お上の言う事には逆らわねぇ、政治なんて小難しい事は任せて、おらだはおらだで、今日も一生懸命、田んぼさ出て、一所懸命稼がねば。」
って人たちの原初の心象風景に、ドストライクでマッチしてしまったのはやむを得ない。てのは、90年代のアートの中に「生活に密着したアート」というものが寄り添い始め。80年代の豊かな社会の残光を残して、生活に余暇を見出そうとした人たちの心象風景にマッチしたのは。
しかしさ・・・何で「余暇までひたすら埋め尽くさなきゃいかん訳」ですか。
休む時、楽しむ時くらい、何もしないでぼーっとしてたっていいじゃないですか、って所を、何で余暇でまで、そこまで熱入れてひたすら埋め尽くさないと気が済みません!みたいに埋め尽くそうとする貧乏性が止まらないのよ!
何でその「空白や余白を」真っ黒黒と塗りたがる行為が大好きなのか、と言いたいのだよな。
それを仕事で埋め尽くそうが、人付き合いで埋め尽くそうが、ギター弾くやら写真だろうが絵だろうがで埋め尽くそうが。
全てが「何かで白紙を埋め尽くそうとする行為」なんだよな。
それが「休符もろくに存在しない、音符で埋め尽くされた音楽」に、妙に被ってくるんだよね。
折角できた余暇を、無理やりブラック労働みたいな行為で埋め尽くして、それを充実感と言っていたのか、俺も一時期、その流れに流されかけてた人間の一人として、痛烈に反省はしてるんだ。
もちろん、自分の中にも「何か休んでる事に後ろめたくて、どうしようもなくいたたまれない気持ちになる」のはあるんだもの。
おかしな寄生虫でも飼ってるのじゃないか、日本人、とたまに思う事はある。のんびり公園で日向ぼっこ、みたいな行為にすら、何か本当に寛げなくて。
「ハイ!10時から11時まで、○○公園で寛ぐ」
みたいなスケジュールを立てて、無理やりそこに行った挙句、時間を忘れてボーっとしたわけでもなく、実は時間をせっせと気にしながら休んだふりをしているのを見てるとですね・・・
「ハイ!休息時間おわり!あー寛いだ、寛いだ!」
それ、絶対ボーっとしてないし、寛ぐという行為からは百万光年ほど彼方の「休んだ振りして、休み時間終わりの時計を気にしてた」だよな。
会社の昼休憩と、サッパリ変わってねぇでやんの。
そういう「なんかちょっと見てて違和感あるというか・・・変なの・・・」というアウトサイダー的な視点こそが、ロックやパンクのアーティストの目線のはずだったのは、某Xで私の親友がもう、梅干し食べてスッパマンなくらい、シマアツコ先生の8ビートギャグのマイケル・モンローのタコチュー並に口酸っぱく言ったはずなんだが。
そう、実は、これがテーマの2つ目というか「そもそも、反骨精神やら反抗って言葉さえも、ロクスッポ意味の分からないで、学校の校舎壊しまくってた人たちの行為は、別に反抗などではない!」ってことを、当時の人たちは、いや、心ある人たちが誰も説明してなかったってことなんだよな。
それ、今もどえらいほどの勘違いの連鎖として、昭和・平成・令和と脈々と引き継がれる、壮大な勘違いを生み出してしまっているんだと思う。
反骨ってのは、さっきのアウトサイダーの視点なんだよな。
「お前、休む休むって言ってて、ちっとも寛いでないよな。もう少し人生、本気でまじめにサボってみたらどうだ!」
って「どうもイケてない勘違いとか、妙な事とか、不条理について、鋭く切り込む批評精神」というか、身も蓋も無い言い方でスパッと鮮やかに切り取る視点の事なんだよな。
「政治や社会に文句を言うのはやめて、自分のできることを一生懸命やっていくことが大事?
それ、どこの封建時代の農民の勘違いなんですか?」
という事を「うわー、きっつーw」と言いながら
「よくぞ言ってくださった」と、その鮮やかな切り口に対してニヤニヤしながら拍手喝采したくなるようなことを「反抗精神」つーわけですね。
みんなが、そういうカッコ悪い勘違いしてる時に「おかしいことはおかしいんじゃないの?」と意見をモノ申す姿勢、なんだと思うけど。それが、そもそも、日本のロックの中に根付いてなかったのだよな。
「ガッコーがなんだー、教師がなんだー、政府がなんだー」と言いながら、校舎叩き壊して、俺らがロックだとか言ってる奴らの、どこに、そのような民主主義を健全に動かすための理知的な批評精神があったのだ?と言いたいのですよ。
それは、単なるヤンキーのなりそこないというかフーリガンっていうの。そのフーリガンたちが、ロックが流行るにつれて、もう雨後の筍みたいに出てきた時に、それに対するアンチテーゼとして出てきた言葉が
「政治や社会に文句を言うのはやめて、自分のできることを一生懸命やっていくことが大事」
みたいな姿勢をアートの中にまで蔓延させたのだとしたら、間違いの上に間違いを重ねて、漆塗って固めて、恥の上塗りをした挙句、ついでに金で繕ってみました、みたいな壮絶な勘違いが、今も、アーティストを自称する人たちの中に脈々と息づく結果になってしまうのもやむを得ないだろう。
だって、それ、批評精神を持たなければ、ずっとそのままひたすら続くって事なのよな。私も、出てきた時は、とても斬新な言葉に聞こえて、その動きに同調してしまいそうになったし、事実やってみたけどさ・・・
どうにも違和感が拭えない人達までが、ひたすらでっちあげただけの「見てくれだけは変な何か」を延々と凝りもせず作ってるだけの退屈から抜けられない、って気分になったんだよね。
「おい、ちょっと俺らのやってる事、おかしくねぇか?」
と問うても
「人の考えを否定するな!ハイ論破!」
君はどこまで、ひたすら、庄屋様の顔色うかがう農民であることを自覚してないんだ・・・で、なんか変な知恵つけられたか知らないけど、素朴だったはずの日本の農民の素直さまで喪ってしまった、変な人になってないか?
というのが「この令和における正しい反抗精神と批評」だと、僕は思ってるのだ。
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