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本の感想47『事実は「配列」されているか?』香西秀信

ひとつやってみてほしいことがある。
まず、なんでもいいから絵を用意する。本のデザインでもお菓子のパッケージでもなんでもいい。そして、それを言葉によって(声に出すでも、書き出すでもいい)表現してみてほしい。

俺もやってみる。目の前に、紅茶のパック10p入りの箱がある。その表面を眺めてみる。
熊が幸せそうにソファーに座って寝ていて、そばには猫がいる。暖炉では火が燃えていて家は暖かかそうだ。机の上には紅茶のポッド、ラジオ付き?の時計、窓の近くには植物や瓶が並べてある。

今、俺は一つの絵を言語化してみた訳だ。いわば描かれている情報を処理して、順番にそれを表現していくという作業を行なった。

これは、正しく絵を表しただろうか?
「絵」というのは、根本的にはそこに描かれた全ての情報を同時に提供している。もちろんそこに順番はない。だから言語化するには、本来順序のない情報に順序をつける必要性がでてくるのだ!

さらに派生して考えてみる。上記のように考えていくと、なにがしかの「事実」を描写した言語表現は、本質的にフィクションになってしまう。

例えばここにニャー子がいる。
彼女は、○性格が悪い○美人 という二つの面を持っている。これらは同時的に彼女の中に存在している。どちらに順序があるわけでもないし、どちらも同じくらいの程度だとする。しかし彼女を誰か他の知人に紹介しようとすると、

「ニャー子は性格が悪いが、美人である。」
「ニャー子は美人だが、性格が悪い。」

となる。前者は、性格の悪さを考慮してもなおそれを上回る顔の良さを強調してるように思えるし、後者は顔は確かに良いがにしてもあの性格だからな…みたいなニュアンスが受け取れる。

与える情報、本来にゃー子に備わっている本質というのは同じであるのに、聞き手に与える印象が異なってくるのだ。いずれの文にしても、嘘をつくことなくニャー子について良い印象も悪い印象も与えることができる。

このように、言語化するというのは、事実をある種ねじ曲げることになる。フィクションを生み出すことになる。そこに恣意性が生まれることになる。

たとえば裁判における被疑者への事実を述べる文にしても、
「彼は確かに殺傷してもおかしくない立場にあったが、冷静に考えば別の選択肢も取れたはずである。」というのと、
「彼は確かに冷静に考えば別の選択肢も取れたかもしれないが、殺傷してもおかしくない立場にあった。」
というのでは、弁護の強さが変わってくる。もちろん実際のものはこんな単純なものではないだろうけど。

この、言語の性質ともいえるものは、非常に利用できる。誰かによって語られ、あるいは書かれた「事実」の配列に対して、「作為」を見出すことができる。もちろん、すべての配列が作為的とは限らない。しかし元の「事実」は同時的に存在していて、表現に順序が必要である。だから逆に、無意識に配列されたものであれば、その中から「無作為」を見出せばいい。「無意識な思い」は十分反映されているはずで、深層的な意識が分かるかもしれない。

言葉の性質の一つについて触れてみた。まとめると二つ。言葉には、事実を歪める性質がある。事実を表現する場合においても、作為的なものが現れている。

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