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とめどなくつれづれと

いっぱいいっぱいである。
数ある日本語の中から、幼子のボキャブラリーにもあるような「いっぱい」を連続することでしか今の精神状態を表せないほどに、追い込まれている。

社会人一年目が終わる。

辛かった。本当に辛かった。
楽しい時間を赤やオレンジで形容できるならば、この1年という細く長いキャンバスは、ほとんどがグレーで埋め尽くされていた。

社会に出て気づいたことは、僕には出来ないことが大量にあるということだった。
学ぶことはたくさんあるし、それによって得られる成長を楽しみにしていた節もあったが、一人の人間としてプライドがズタズタに引き裂かれるほど、僕は僕が思っていた以上に優秀ではなかった。

いいのだ。これまでもそうやって出来ることが増えてきたのだから。
ただ、この1年を振り返ったとき、唯一反省するべきことがあるとすれば、自分と向き合うことを疎かにしたことだ。

洪水のような量の情報を浴び、自分のストレージがあふれそうになったとき、僕は考えることをやめてしまった。
外で起きることに振り回され続け、アイデンティティを保つための工夫をやめてしまった。

起きて、支度をして、家を出て、近くのコンビニでおにぎりを2つ買って、駅までの道で食べて、電車に揺られて、会社のビルにあるタリーズでコーヒーを買って、デスクでパソコンを開いて、昼飯も食べながら仕事して、退勤して帰ってきたら23時くらいになっていて、シャワー浴びて、コンビニで買ったご飯を食べて、寝て、また起きて。

一番嫌悪していたサラリーマンをそのまま生きてしまっている。

自分をお世話したり、頭の中を整理することが、どんどん後回しになっていった。

その影響はすぐに出る。自分のことが整理できていないから、周りのことをいたわったり気にかける余裕がない。自分の保身の方が大切だから。
仕事でも、気を利かせられる場面で行動に移せない。業務の中身がスカスカ。ミスも増える。自然と周りからの評価も下がる。自己嫌悪感が増す。
最悪の悪循環。

自分が上手く保てないまま、時間だけが過ぎていって、仕事をちゃんと納めるというプレッシャーから呼吸が浅くなる。
一度、仕事中に左手が震えだしたときは驚いた。

もう少し、自分のことを大切にしないと、そろそろまずいかもしれない。
僕が心地よいと感じる瞬間を増やすために、もう少しわがままにならないと、壊れてしまうかもしれない。

それは、部屋が片付いていることであり、洗濯物がたまっていないことであり、調理したものを食べることであり、信頼できる人と時間を共有できることであり、たまに雀荘に通うことであり、適度に運動することであり、泥のように眠ることであり、

そして「書んがえる」ことである。

どうやら、僕にとって「書く」という行為は、僕が理解している以上にかけがえのないことらしい。

長い人生を歩む中で、全ての情報を受け止めるには僕の脳は小さすぎる。
定期的に放出して整理整頓してやらないと、爆発してしまう。

おそらく人によってその手段は様々で、口に出してアウトプットする人もいれば、絵を描く人もいる。
それぞれがそれぞれのやり方で、自分の中にたまった情報たちを得意な方法で整理している。

僕に適していたのは「書く」という行為だった。
大学生に初めてNoteを書いたとき、胸がすごく高揚したことを覚えている。
内に秘められた形のない思いが、僕の脳や手を通って文字に起こされたとき。
こんな自分でも「表現」できる手段があるのだと、叫びたくなるほどに嬉しかった。

やっぱり、やめたらだめだ。書くことを止めてはダメだ。

文字が蓄積されていくハードディスクは、おそらく、僕よりも僕だ。

来週から社会人2年目。後輩も出来る。
辛いことはたくさんあるけれど、「書く」という瞬間的なオアシスをもう一回信じてみよう。

虫かごの中を見つめるように、文字に起こされていく自分を眺めて、大事にしてあげよう。

その先にどんな自分が待っているかは分からないけど、いまは、それが一番心地よい気がする。

いつもNoteを書くときは、絶対ここで読み返して、一日寝かせてアップするけど、今日はいいや。
誤字があるかもしれないけれど、とめどなく連ねた思いをこのまま昇華させてみよう。

アップしたら、部屋の掃除でもしてみるかな。


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