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AD ALTIORA TENDO

大学四年の冬に、友人に誘われて映画「ぼくは明日、昨日のきみとデートする」を観た。小説が原作なので、そちらを読んだことのある方もいるかもしれない。二十歳の主人公の男性が、逆向きに時間が進む世界の同い年の女性とともに過ごした30日間の話なのだが、「時が逆向きに流れる」という仕掛けによって、非常に切ないストーリーとなっている。私は観ながら涙を流してしまった。

一方の友人はといえば、上映後に目を腫らしている私を見て、「あー、泣いてる」などとからかうばかりで、特に感動した様子ではない。聞いてみると、「だって、ありえない話なんだもん」とのことだった。


さて、これまでの人生で、私は何度となく「理想主義的である」という評価を受けてきた。もちろん、自身ではそう思ったことはないし、他の人と大差ないつもりでいる。しかし、私が何を言おうとも、客観的な意見がそれに集約されるのだから、もはや抗うことはできない。

そうはいっても、理想主義から離れて現実主義的な思考に転向しようと思うわけではない。現実を見ることの重要性は理解しているが、その上でやはり理想を追い求めてゆきたいのだ。「ここにあるもの」よりも「ここにないもの」が私の原動力になっている。

理想や建前というものは、つかみどころのないものだ。達成できるかどうかも分からない。私自身、思い描く目標に届かずに、何度も唇を噛んできた過去がある。しかし、上を目指さずして現状維持はできない。その思いで、ずっと歩き続けている。


先日、こんな言葉を頂いた。

理想はなかなか実現しないけれども、理想を捨てたら、とめどなく堕落してしまう。それが人間であり、社会であるような気がします。

まさに私がこれまで思っていたことを端的に示してくれた言葉だ。上を見上げるからこそ、今いる場所にとどまることができるのであって、現実が限界点・最高到達点となってしまっては妥協に繋がりかねない。理想に向かって努力するところに、結果は生まれるのだと信じている。


――と、理想主義を正当化したところで、「ぼくは明日~」で感動してしまった照れを隠すこともできまい。まして、現実離れした物語のようなロマンスが訪れるはずはないのだ。ただ、どこかの誰かにとって、私が「理想」の男性となれるように、日々努力するしかない。

それでも、あの映画のような世界があったらと思うのだ。それは理想ではなく、単なる妄想に過ぎないのだけれど。

(文字数:1000字)

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