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2つの歌とハロウィンと

『大きな古時計』と『グリーングリーン』。幼少のみぎりに聴いたこの2曲が、現在まで心の根幹にとどまり続けている。正しくは、この2曲の「私の解釈」が、と書くべきかもしれない。小学校に入るか入らないかの頃にぼんやりと感じていた歌詞の意味が、今でも私の中に強く根付いている。


特に『大きな古時計』の解釈については、幼稚園に通っていた時に級友と口喧嘩にさえなったのを覚えている。私が雑談のつもりで口にした言葉が、火を点けた。

「『大きな古時計』って、おじいさんが死んじゃうまでの時間を言ってるのかな」
「?」
「おじいさんの家に時計があるわけじゃないんだよね、きっと」
「何言ってんの? バカじゃないの?」


この事件以来、私が学校に入ってからも文章読解に言い知れぬ抵抗が残り続けた。そのとき負った傷はあまりに深い。だからこそ、今回このnoteで書いている解釈を笑われるのではないかという恐怖から脱しておらず(幼稚園の時のその解釈は誤りではないと今でも個人的には思っているのだが)、恐れ躊躇いながらキーボードを叩いている。


また、『グリーングリーン』についても、「パパ」が出かけた二度と帰ってこない「遠い旅路」とは、すなわち死なのだろうという気がしたのは、小学1年生でこの歌を習った時だった。さすがに幼稚園のトラウマにより、生涯通して友人には一度も話したことはない。ただ、この歌を音楽の授業で“歌わされる”たび、一人涙を流してしまうのを何度もからかわれたのを鮮明に覚えている。


いずれにせよ、小さな頃から「死」というものを意識していたのは確かである。もっとも、死への恐怖を感じるのはそれよりも後のことであったが、漠然とした「ひとは死ぬもの」という感覚は既にあった。


死ぬことは空しく、悲しく、寂しいものだ。そして、生きることも同様だと思う。それが人間の本質なのではないだろうか。満たされているものを満たすことはできない。空っぽであるからこそ、そこへあらゆるものを注ぐことができる。今日の空しさは、明日の充足への足掛かりである。


今日、昨晩の渋谷のハロウィン騒ぎの報道を目にした。インタビューに答えて参加者いわく、「充実してます。充実してない人生とか考えられないっす」。酒に澱んだ彼の瞳に、今朝の渋谷の静かな混沌は、一体どう映るのだろうか。目の前の満足を追うばかりに、隠れた空虚を忘れてはいないか。


本質とは虚である。私はそう思っている。

(文字数:1000字)

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