見出し画像

『死と死刑』(全3回) 第3回「生きるということ」

「死」を初めて意識したのは、小学3年生のときだった。『ゲゲゲの鬼太郎』を読んだのがきっかけである。それは同時に、死への恐怖が植えつけられた瞬間でもあった。

これは、誰もが成長の段階で抱く不安であるらしい。おそらく、人間として生きる上で重要な心理的転機なのだろう。だからこそ、誰に教わるともなく、ひとを殺してはいけないと悟るし、大切なひとには亡くなってほしくないし、自分自身の命を大切にするようになるのだと思う。


一昨日、昨日の二日間にわたり、私は死刑制度への賛否を論じた。ここでは自分の立場を表明するのではなく、両論を並立させる方法を採っている。私個人としては死刑存置の立場であるが、そんな一意見を綴ることへの意味を見いださなかったためである。それよりも、より根元的な問題――すなわち、見知らぬ人にいつ殺されてしまうか予測できない危うさ、身近なひとが突然いなくなってしまう悲しさ、受刑者に自らの死をもって罪を償わせるということの難しさを、読者に改めて感じて頂きたかった。存廃いずれの意見においても、同じく死の重大さを論じた理由はそこにある。


死を認識してこそ生を求める。それはおそらく、意識するとせずとに関わらず、多くの人が抱いている感情であろう。


そうなのだ。

死とは、怖いものなのだ。


しかし、世界的に見ると、そう考える日本人は少ないようである。日本では、2016年の統計で「自殺」が死因の8位になっている。2015年のWHOによる調査では、世界で18番目に自殺率が高いという結果が現れた(男女別では、男性が20位、女性が同率8位)。

日本には、死への恐怖を超える何かを心に抱えている人が多いということなのだろうか。その「何か」は、生への恐怖と言い換えられるかもしれない。明日を迎えることへの恐怖、今日を終えることへの恐怖。そんな終わりなき苦しみから逃れるために、時にひとは自ら命を絶ってしまう。それはとても寂しく、悲しいことだ。


どうにかしたい。


もしも目の前に自殺しようとしている人がいたら、私はどんな言葉を掛けられるだろうか。どんな行動を起こせるだろうか。「死ぬな、生きろ」と伝えることは簡単だ。そんなことで自殺を防げるのなら、誰も苦労しない。

だからこそ、私は敢えて死を語りたいと思う。死ぬということの儚さを、力一杯に囁きたい。

死の重みを、全ての人が共有することが、全ての人の価値ある生に結びつくはずだから。

(文字数:1000字)

有効に使わせていただきます!