よっしー

昔書く人、今は見る人、ときどき書く人。

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  • 平成の終わりに~JR福知山線脱線事故と私

    平成の2年前、1987年に発足したJRという鉄道会社。そのひずみが、平成のほぼ真ん中で引き起こした死者107人の鉄道事故。あれから14年。それを見続けていた私。

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平成の終わりに~福知山線脱線事故から14年

2019年4月24~25日4月24日の夜、仕事を終え、軽く食事して、東京駅から夜行バスに飛び乗った。 翌朝。今年の関西は、灰色の空だった。 4月25日を尼崎で過ごすようになって14年。 雲一つなく晴れ渡った日も、正反対に大雨だった日も、強く印象に残っているのだけど、どちらでもない日の印象はなぜか希薄だ。 漫画喫茶でシャワーしてコーヒーを飲んだ後、JRに乗って尼崎へ。 どことなく殺風景だったJR尼崎駅構内はセブンイレブンができたり、関西名物マネケンの店ができたりしていた。し

    • 取材することは慣れていても、取材されることには慣れていなかった。

      この仕事をしていると、いろんな人を取材して、取材をして文章を書くことにはいつしか慣れていく。一方で、自分が取材を受けることはほとんどなく、取材の結果が記事や映像として世に出回ることには慣れていない。 そんな典型的な職業記者だったが、昨年はとある自分の家族に関する話が大きな話題となってしまい、いくつかの取材を受け、寄稿依頼にも応じた。その中には海外メディアも含まれていた。この件で自分自身が目立ちたいという気はまったくなく、家族の名誉に関することなので、正確に報じてほしいという

      • 遺族の意に反して被害者の死を報じるということ~岸本さんの場合

        JR福知山線脱線事故の遺族や負傷者を支援してきた弁護士が、Facebookでこのニュースをシェアして、いろんな記憶がよみがえってきた。 長いこと記憶の中に埋もれていたが、決して忘れることのできない名前だった。この件が公になった経緯は、自分も深く関わっていたのだから。 https://www3.nhk.or.jp/lnews/kobe/20211004/2020015517.html 匿名の情報提供あれは私が阪神支局に異動してすぐの頃だったから、2008年の秋だった。

        • 【記録】ワクチン打ってきた。あの裏技で

          勢いで新型コロナウィルスのワクチンを打ってきた。 もともと早く打ちたかった。タイムラインで国内外から「打った」報告が相次ぐのを見ていると、何となく気がはやる。まだまだ叶わぬ夢だけど、早くワクチン打って海外旅行に行きたいなあ、早く日常を取り戻したいなあ、という思いは募る。 64歳以下の接種はまだまだ先かと思っていたら、徐々に基礎疾患持ちの人の接種が終わっているようで、打った人の話がぽつぽつと伝わってきた。 一気に進んだ印象があるのが、6月17日。ガラ空きだった自衛隊の大規

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        平成の終わりに~福知山線脱線事故から14年

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        • 平成の終わりに~JR福知山線脱線事故と私
          16本

        記事

          仰天のドラマ化

          東京からの変な電話2005年の、そろそろ暑くなってくる頃だったと思うが、取材を終えて本社に戻ってくると、自分の机の上に、電話があったことを記したメモがあった。 「×××会社の●●さんという人から、電話をくださいとのことです。03-****-△△△△」 まったく記憶にない会社名と人名で、社名からも業種はまったく想像がつかなかった。電話がほしいとはどんな用件なんだろう。しかもここは大阪。東京からの面識のない相手からの電話なんて、めったにないことだ。何か変だと思ったが、とりあえ

          仰天のドラマ化

          気がつけば2021年

          気がつけば2021年になっていた。 「平成の終わりに」と題して、JR福知山線脱線事故から15年の節目までに一区切りつけようとしていたが、この間、無意味な仕事を押しつけられたことのストレスで休職し、復職し、新型コロナが世界を襲い、あっという間に時間が過ぎた。 2020年4月25日は緊急事態宣言のまっただ中、飲食店は営業自粛、長距離の移動などもってのほか、という状況で、現地を訪れることもかなわず終わった。 1年前のツイートをリツイートしただけのものが、モーメントに取り上げら

          気がつけば2021年

          閑話休題ー夜中に携帯電話を鳴らされる恐怖

          しばらく間が空いてしまった。連休明けから仕事環境が激変してしまい、多忙な中で過去を振り返る余裕もなかった。 14年前も似たような状況だったようで、当時書いていたmixiの日記を見ていると、「自分の中での風化」を嘆き、一生懸命に抗おうとしている様子がわかる。 テーマライターは、ニュースとの戦いを強いられるのが宿命だ。脱線事故の刑事処分や原因究明、そして遺族や負傷者の苦しみは依然として現在進行形で進んでいるとはいえ、徐々に脱線事故の記事は減り、記者の数に限りもあるのでその他の

          閑話休題ー夜中に携帯電話を鳴らされる恐怖

          それでも、被害者取材は必要だと思うこと~14年前の福知山線脱線事故をいま振り返って

          (記事一覧) 何ともタイミングの悪いことに2005年のJR福知山線脱線事故で、遺族・負傷者取材に携わってきた話を紹介してきた。理不尽な事故で肉親を失ったり、事故で瀕死の重傷や心理的な後遺症を負ってしまった被害者の取材は、正直に言って、やる方も苦しいし、読む方も辛い。私自身、いろんな人を傷つけてきたし、怒られてきた。「センセーショナリズムに走るな」「お涙ちょうだいが売れるからやっているんだろう」と批判もされる。(ビジネスとしては正直、まったく割に合わないと思う) それでもや

          それでも、被害者取材は必要だと思うこと~14年前の福知山線脱線事故をいま振り返って

          関西出身でないことは罪なのか~JR福知山線脱線事故、ある遺族とのこと

          (記事一覧) JR福知山線脱線事故で、取材に応じる被害者の心境にはいくつかの類型があったことを紹介してきた。 初回で紹介した、妻を亡くした男性のことも、その流れで書いておこうと思う。 男性と初めて会ったのは、事故発生後1カ月ほど過ぎた2005年6月3日だった。大阪市内の中心部で管工事の会社を経営しており、取材場所はかならずその事務所だった。男性が社長兼作業員で、亡くなった妻が経理その他を切り盛りする役員、社員は総勢3人という小さな会社だったから、大黒柱を失った会社は機能

          関西出身でないことは罪なのか~JR福知山線脱線事故、ある遺族とのこと

          手紙を書く~取材に応じてくれる人を掘り起こすために

          (記事一覧) 時間の経過とともに、遺族の心境も落ち着いてくる。それは、取材をする側にとって有利にも不利にも働く。でも、発生直後に泣いている映像だけ撮って、現場を荒らすだけ荒らして去っていくワイドショーのような火事場泥棒的取材で終わらせるのと、その後も長期にわたって関係を築いていくのは、圧倒的に後者の方が労力を伴う難儀な作業だ。 その作業は、手紙を書くことが中心になった。すぐには取材に応じてもらえなくても、落ち着いたところで読んでもらい、趣旨を理解してもらい、閉ざされた扉を

          手紙を書く~取材に応じてくれる人を掘り起こすために

          令和の始めに~なぜ被害者は取材に応じるのか(初期)

          (記事一覧) というわけで、平成が終わったが、14年前の回想録はまだゴールデンウィークも終わっていない。来年の4月25日、事故から15年のメモリアルイヤーまでに完結することを目指して、ぼちぼち書き進めよう。 107人が死亡し、562人が負傷した事故では、遺族、負傷者やその家族を中心にした「被害者」もかなりの数に上った。葬儀や法事など忙しいときに訪ねて来る記者に応対したところで、法的・金銭的なメリットなどあるわけがない。それでも時間を割いて取材に応じてもらえる被害者には、い

          令和の始めに~なぜ被害者は取材に応じるのか(初期)

          私はなぜヒゲをそらないのか~JR福知山線脱線事故と「暴言記者問題」

          (記事一覧) 前段2005年4月25日、突如起きたJR福知山線脱線事故の発生で、この年のゴールデンウィークは消えた。 青空の下で、連休なのに喪服姿の人が増えた西宮北部や三田のニュータウンを駆け回り、取材をしたり、電話をしたり、地べたに座り込んで応援で来た記者と打ち合わせをしたり。 そんなわけで、事故現場に顔を出したのは前回書いた通り、大型連休期間で一度だけ。遺体安置所になった尼崎市記念公園総合体育館と、被害者の住む街が、私にとっての現場だった。会社の対応が大きな焦点にな

          私はなぜヒゲをそらないのか~JR福知山線脱線事故と「暴言記者問題」

          2005年の大型連休、知らないところで自分が標的に~JR福知山線脱線事故と私

          (記事一覧) 最初の10日間、つまりゴールデンウィークの連休中は、次から次に発表される遺族の人となりを聞く取材や、犠牲者の写真を集めるのが主な仕事だった。今と違ってSNSもない時代、顔写真は基本的に遺族の了解を得てお借りしていたが、突然の訃報に驚愕し、葬儀の準備などに殺気立っている中で、快く写真を貸してくれる遺族は極めて稀な存在と言ってよかった。 知人、友人を探し出して「写真をお貸しして頂けませんか」と頼み込み、「●●さんと■■さんは▲▲高校の同級生」と聞けば、学校や関係

          2005年の大型連休、知らないところで自分が標的に~JR福知山線脱線事故と私

          2005年4月28・29日~入学から3週間で亡くなった大学生

          (記事一覧) 兵庫県警から発表される死者の数は10人単位で増え続け、100人が目前だった。時事通信のメール速報で私の元に届く。未曽有の大事故になってしまった。 現場ではマンションにぶつかってつぶれた車両の捜索が続いていた。事故発生から2日後の4月27日朝、行方を探していた大学生の2人が遺体で発見されたと、警察から発表された。 事故を起こした快速列車には大学生が多数乗っていた。大学生の死者も連日発表されていた。「仲良し2人組が、同じ大学に進学して、この日も同じ電車で大学に

          2005年4月28・29日~入学から3週間で亡くなった大学生

          2005年4月26日~一夜明けて遺体安置所

          (記事一覧) JR福知山線脱線事故の発生初日、遺体安置所となった尼崎市の体育館に貼り付けられた私。午前2時を回った頃「交代で1時間ずつ仮眠してまた現場」という指令が届いた。 一時間仮眠して、また体育館に戻った。夜が明けて周囲は明るくなり、メディアの数も10分の1ぐらいに減っていたからだろうか、雰囲気も少し落ち着いていた。体育館から出てきた人に恐る恐る話を聞いてみると、「親族の行方が分かりません。とにかく心配です。早く助けだして欲しい」といった話をしてくれる人が少しずつ現れ

          2005年4月26日~一夜明けて遺体安置所

          2005年4月25日、尼崎~JR福知山線脱線事故と私

          (記事一覧) その日の朝はゆっくり始動した。午前9時を過ぎて、そろそろ出勤しようかと思ったころ、当時ガラケーだった携帯に、時事通信のニュース速報のメールが飛んできた。「踏切で事故。2人死亡」といった内容だった。「ああ、午前中は忙しそうだな」と思った。 その頃なぜか鉄道事故の取材で呼び出されることが多く、2週間ほど前にも、大規模な停電で関西圏のJRが止まり、午前中いっぱい取材に追われたのを思い出していた。夜は以前から楽しみにしていた、他社の記者たちとの飲み会の約束があった。

          2005年4月25日、尼崎~JR福知山線脱線事故と私