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平成の終わりに~JR福知山線脱線事故と私

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平成の2年前、1987年に発足したJRという鉄道会社。そのひずみが、平成のほぼ真ん中で引き起こした死者107人の鉄道事故。あれから14年。それを見続けていた私。
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記事一覧

取材することは慣れていても、取材されることには慣れていなかった。

この仕事をしていると、いろんな人を取材して、取材をして文章を書くことにはいつしか慣れてい…

よっしー
3か月前
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遺族の意に反して被害者の死を報じるということ~岸本さんの場合

JR福知山線脱線事故の遺族や負傷者を支援してきた弁護士が、Facebookでこのニュースをシェアし…

よっしー
2年前
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仰天のドラマ化

東京からの変な電話2005年の、そろそろ暑くなってくる頃だったと思うが、取材を終えて本社に戻…

よっしー
3年前
2

気がつけば2021年

気がつけば2021年になっていた。 「平成の終わりに」と題して、JR福知山線脱線事故から15年の…

よっしー
3年前
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閑話休題ー夜中に携帯電話を鳴らされる恐怖

しばらく間が空いてしまった。連休明けから仕事環境が激変してしまい、多忙な中で過去を振り返…

よっしー
4年前
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それでも、被害者取材は必要だと思うこと~14年前の福知山線脱線事故をいま振り返って

(記事一覧) 何ともタイミングの悪いことに2005年のJR福知山線脱線事故で、遺族・負傷者取材…

よっしー
5年前
9

関西出身でないことは罪なのか~JR福知山線脱線事故、ある遺族とのこと

(記事一覧) JR福知山線脱線事故で、取材に応じる被害者の心境にはいくつかの類型があったことを紹介してきた。 初回で紹介した、妻を亡くした男性のことも、その流れで書いておこうと思う。 男性と初めて会ったのは、事故発生後1カ月ほど過ぎた2005年6月3日だった。大阪市内の中心部で管工事の会社を経営しており、取材場所はかならずその事務所だった。男性が社長兼作業員で、亡くなった妻が経理その他を切り盛りする役員、社員は総勢3人という小さな会社だったから、大黒柱を失った会社は機能

手紙を書く~取材に応じてくれる人を掘り起こすために

(記事一覧) 時間の経過とともに、遺族の心境も落ち着いてくる。それは、取材をする側にとっ…

よっしー
5年前
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令和の始めに~なぜ被害者は取材に応じるのか(初期)

(記事一覧) というわけで、平成が終わったが、14年前の回想録はまだゴールデンウィークも終…

よっしー
5年前
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私はなぜヒゲをそらないのか~JR福知山線脱線事故と「暴言記者問題」

(記事一覧) 前段2005年4月25日、突如起きたJR福知山線脱線事故の発生で、この年のゴールデ…

よっしー
5年前
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2005年の大型連休、知らないところで自分が標的に~JR福知山線脱線事故と私

(記事一覧) 最初の10日間、つまりゴールデンウィークの連休中は、次から次に発表される遺族…

よっしー
5年前
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2005年4月28・29日~入学から3週間で亡くなった大学生

(記事一覧) 兵庫県警から発表される死者の数は10人単位で増え続け、100人が目前だった。時…

よっしー
5年前
8

2005年4月26日~一夜明けて遺体安置所

(記事一覧) JR福知山線脱線事故の発生初日、遺体安置所となった尼崎市の体育館に貼り付けら…

よっしー
5年前
8

2005年4月25日、尼崎~JR福知山線脱線事故と私

(記事一覧) その日の朝はゆっくり始動した。午前9時を過ぎて、そろそろ出勤しようかと思ったころ、当時ガラケーだった携帯に、時事通信のニュース速報のメールが飛んできた。「踏切で事故。2人死亡」といった内容だった。「ああ、午前中は忙しそうだな」と思った。 その頃なぜか鉄道事故の取材で呼び出されることが多く、2週間ほど前にも、大規模な停電で関西圏のJRが止まり、午前中いっぱい取材に追われたのを思い出していた。夜は以前から楽しみにしていた、他社の記者たちとの飲み会の約束があった。