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純粋さを忘れてはいけないと感じた事について


はじめに

人間は何かを獲得すると、何かを喪失する生き物だから

10年以上前に、ASIAN KUNG-FU GENERATIONのボーカル(後藤正文)が、音楽雑誌のインタビューか何かで語っていた言葉である。

もう、相当前の発言だから、どのようなシチュエーションで言い放たれたのか、私も全く覚えていない。
でも、「何かを獲得すると、手放してしまうものもあるんだ」という視点がある事を知り、当時学生だった私は衝撃を受けたのである。
だから、この視点に受けた衝撃は今でも忘れていない。


学生から社会人になるにつれて、この言葉の意味や真意が(何となくではあるが)分かるようになってきた。

趣味の場になると、そういうものをより強く感じられるようになった。

同じものを見続けていたり、追い続けていたりすると、知識や勝手は分かるようになる一方で、確実に失われていくこともある。
物事への新鮮さだとか、好奇心だとか…。

私の場合、プロレス観戦が今まで続いている趣味の中でも一番歴が長くなっているのだが、最初の頃に抱いていたような「会場に行く時のワクワク感」だとか、「観戦出来る事が当たり前ではない」という有難みとかは確実に薄れている気がする。

2020年春~初夏にかけて、新型コロナウイルス禍の影響もあり約3ヶ月間現地観戦が出来なかった地獄のような時期を経ても、興行のペースが比較的戻ってきた今は当時のような感情からは遠ざかっている。
疫病で趣味が見れなくなる恐ろしさは、嫌という程染み付いたはずなのに。

また、楽しみ方とか視点の違い、マウント、自己顕示、大会や試合内容以外の指摘(観客動員の多寡etc)、SNSの一方的なやり取り(クソリプ)など、コミュニティが広がるにつれて煩雑な事象を見かけたり、巻き込まれたりすることも増えてきた。


要は、趣味を楽しむことに疲労感みたいなものを感じていたのである。

近頃、プロレス観戦より楽しそうなイベントがあれば、迷わずそこを選ぶようになってしまったのも、そうした理由が大きかった。

中野駅前大盆踊り大会


会場に向かう子供を見て感じた、大切な純粋さ

それでも、何かに疲れていたとてプロレス会場へと向かってしまうのは、ファン故の悲しい性分なのか…(苦笑)。


今夏、私は後楽園ホールで行われたプロレスリング・ノアの興行に足を運んでいた。
2023.8.9~2023.8.11の3日間連続で行われる興行は、3大会とも非常に盛り上がり、私自身も楽しい思いを抱えたまま帰路に着くことが出来た。


この期間中は、毎日のように会場で人とお話ししたりする機会も多く充実しすぎていたのだけれども、特に印象に残っているシーンがある。

3連戦の中日に、会場の後楽園ホールに入ろうとしていた時の事だった。

父親に連れられてプロレス観戦に来たと思われる子供が、ホールに入る前にたまらずこう叫んだのである。

「後楽園ホールだあ!」


何気なく発された子供の言葉だったのかも知れないが、私の脳天に雷が落ちたような衝撃を受けたのだ。

「この子供のような、純粋に何かを楽しむような思いで、私は趣味を楽しめているのだろうか?」と。


プロレスファン同士のいざこざも、選手や団体の内容に対して不満を抱くことも、全て、この純粋な反応で吹き飛んでしまったのである。

私は、趣味を楽しむ上で大事なことを忘れていたのだ。
本当は、この子供のように、目の前の事を楽しむべきだったのではないか、と。


まとめ

何気ない子供の反応から、脳天を直撃した経験。
私は、他の人の評価に気を取られて、目の前の事を楽しめていなかったのかもしれない。

あの子供のように、目の前の楽しみを真っ直ぐ謳歌できる人になりたい。

私は、そう教えられた気がした。

そんなことを考えさせられた夏休みなのでした…。

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