見ないことには判断できない〜情報過多な今だからこそ〜

「見ない事には判断できない」

毎年、プロレスの個人的ベストバウトやMVPを振り返る際、決まって感じている事の一つだ。

自分が見ていないものとなると、判断材料が少ない故に、自分の中にある曖昧模糊としたイメージや好き嫌いが強く出てしまう実感がある。

個人的プロレス大賞を決める時に、自分が追えていない団体や選手の名前を入れていないのも、その為だ。
自分の選択肢や判断材料に入れるには、あまりにも試合を見ていないから。
なので、私自身の好みの偏りと努力の問題になってしまう…。


自分の目で見る大切さを教わった、『ジョー・ドーリングvsヨシタツ』

私自身、冒頭の「見ない事には判断できない」という考えさせられたキッカケは、2017年11月に全日本プロレスで行われた三冠ヘビー級王座戦・『ジョー・ドーリングvsヨシタツ』だった。


試合時間が大体30分前後の三冠戦にあって、約12分で試合が決した事や、当日の現地ツイートから、ヨシタツの試合内容に批判的意見が見られた。
実際私も、試合を見るまでは「試合内容が相当良くなかったんだろうな」というイメージが擦りついていた。

けれど、GAORAで後日映像を視聴してみると、私の印象はガラッと変わった。
確かに、ヨシタツはジョーに一方的な展開を許していたけれど、絞め技やコーナーで繰り出した技によって、流れを変えようとする姿が見られたのだ。


これは、実際に映像を視聴してみないと、気付けなかった事でもある。

あの試合をテレビで見て以降、「試合を見てみないと判断できない」という思いは、私の中でより強くなった。


【発言の一人歩き】を懸念し、抗った、アクトレスガールズ後楽園大会

記事や発言の内容や印象が先行することで、正当な評価に至らない危惧がある。
その恐れを強烈に感じたのは、平成も終わりを告げる2019年4月30日の事だった。

同日昼に行われた、アクトレスガールズ後楽園ホール大会。
団体のビッグマッチは、試合後、堀田祐美子による公開説教で幕を閉じた。

「プロレスってそんな簡単なもんじゃねーんだよ!甘くみんなよ。」

強烈なフレーズである。

ただ、現地観戦勢を中心に、公開説教への批判も見られたし、私の感想も「選手達は後楽園やプロレスを舐めてなんかいない」というものだった。


けれど、堀田の発したフレーズ一つが、外に「アクトレスガールズはプロレスを舐めている」とジャッジされたり、拡散されたりする危険性も孕んでいた。


そんなモヤモヤを掻き消すようにして、後日、私はBlogを綴った。


私自身、熱心なアクトレスファンという訳ではなかったけれど、衝動的に記事を書いたのは、「プロレス舐めている」の一人歩きが形成しかねないイメージに、非力でも抗いたかったからなのだと思う。

手前味噌ではあるけれど、団体のハッシュタグを付けずにツイートした記事は、私のプロレス系記事で一番反響を多くいただいた。


実際に見たり感じたりした事を書く私のベースは、この記事を書いた経験にある。


『見ない』は安易だけれども…

今は便利なことに、試合や配信を見ていなくても、その日の興行がどのような雰囲気だったのか、ニュース速報やTwitterの実況ツイート等で分かるようになった。
極端な話、実際に自分が試合を見なくても、他者の判断材料を以て、自論を補強することも可能になった訳だ。

反対に、見ていない事によって露見するボロも、容易く分かるようになってしまった。


先日、You Tubeで収益化の条件を満たしている某プロレス系YouTuberは、プロレスラーのKAZMA SAKAMOTOの事を、【KAZMA】と【SAKAMOTO】の2人いると認識していた。

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これとは別に、私自身忘れられないのは、プロレス系ブロガーが、2019年末よりNOAHに参戦している覇王に対して、「前の団体で実績はありませんでしたが〜」と述べていた事だ。

(寧ろ、積み上げた実績を蹴ってNOAHに来てくれた選手だと私は思うから…)

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どちらにしても、試合を会場や映像で観たり、経歴を調べていたりすれば至らない結論に感じたので、思わず面食らった記憶がある。
(後者の実績云々については、人によって判断基準が分かれるかもしれませんが…)


個人的には、STARDOMで喧々諤々の議論がなされる【選手の引き抜き】云々の議論にしても、STARDOMを何度か観ている人と、観ていない人ではかなりの隔たりがあると感じてしまう。
(私も実際、STARDOMを見るまでは偏見を抱いていた人間なので、余計にそう感じる)

ジュリアの入団経緯のゴタゴタとドロドロが未だ根強いのかもしれないけれど、実際のところ、元東京女子プロレス勢など、前の団体で契約満了ないし退団を経て上がっている選手の方が最近は多い。


条件面等はあれど、野球やサッカーしかり、フリートランスファーの選手にオファーがかかるのは自然の道理と言いましょうか…。
(これに関しては、私の中で色々思うこともあります)

※結局は、これに尽きる


まとめ

落合博満「ここから毎日バッターを見ててみな。同じ場所から、同じ人間を見るんだ。それを毎日続けてはじめて、昨日と今日、そのバッターがどう違うのか、わかるはずだ。そうしたら、俺に話なんか訊かなくても記事が書けるじゃねえか」

『嫌われた監督』(著者:鈴木忠平)に登場する、落合博満が著者に向けた言葉である。


毎日というのは難しいかもしれないけれど、どんな批判意見にしても、「実際に対象を見ているかどうか」は議論する上で重要なベースになってくる。

極端な話、そこの有無だけで、「話を聞いてもらえるか」という説得力にも影響してくると私は考えている。

見ていないのに批判したら、「どうせアンチでしょ」と一蹴されること請け合いなので…。

(逆に言うと、実際に見た上での批判的意見を潰す事も、コレジャナイ感が強い)


別に私は、「沢山見ている事がエラい」と言いたい訳ではない。

私の場合、沢山見る事は、「見ていないと、その事について語る際、事実誤認を引き起こす危険性が高くなる」という、自己防衛の側面が横たわっている。


例えば、【カメラで試合の写真を撮っている人は、試合を見ていない】という意見がある。
私自身、以前はその意見に同意していたけれど、実際にカメラを構えて写真を撮るようになり、考えを改めた。
実際に体験してみて初めて、「ちゃんと試合を見ていないと、寧ろ写真は撮れない」という考えに至ったからだ。


何気ないけれど、こういう自分の目や行動で築いていった、体験の積み重ねを馬鹿にすることは出来ない。

そして、実際に体験したり、見たりしないと分からないことが、まだまだ私には沢山あると痛感している。

批判しがちな私自身への自戒も込めて…。

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