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【壁紙のために写真を撮る】と言い続けたい理由

はじめに

2019.6.9
私が初めて、自分のお金でカメラを買った日だ。

ここまで日付を詳細に覚えているのは、訳がある。
この日、私は後楽園ホールで、父と父の知人を連れて、プロレスリング・ノアを観戦していた。

2009年に亡くなったプロレスラー・三沢光晴のメモリアル興行。

メインで組まれたGHCヘビー級王座戦・清宮海斗vs杉浦貴の激闘に心を打たれた大会後、私は父と一緒に中古のカメラショップに足を運んだ。


以来、会場でカメラ無しには観戦できない身体になってしまった私。


私がカメラで写真を撮ろうと思った理由は幾つかある。


その一つは、『自分の使うスマートフォン(或いはタブレット)の壁紙が欲しかったから』


自分の撮った写真なら、誰に何を言われることもないし、人に許可を取る必要もない。


カメラを始めたての頃は、【壁紙の為に写真を撮る】事はただの目的だったけれど、いつしかそれは"私自身の在り方"に形を変えた。

きっかけは、些細なことだった…。


良い写真だとしても、尊敬できない振る舞い

【壁紙の為に写真を撮る】

この、簡単に達成できそうな目標設定のままでいたいのは、
「ある一定のラインを踏み越えた時に、自制心が働かなくなるのが怖い」という思いがあるからだ。

写真のための熱量が、暴走してしまう感覚…。


私は過去に、プロレス界隈で写真の評価が高いとされる人が、全席指定にもかかわらず、自分の買った席より前の空席に移動して撮影していた様子を生で目撃してしまったことがある。


2022年にも、各団体が集まる某興行で、こんなシーンに出くわした。

その日、私はスタンド席のある最前列から観戦しており、両隣もカメラで写真を撮っていたのだが、休憩明けの試合で入場シーンに突入したタイミングで、同じ列にいた観客が戻ってきた。

私などはカメラを下げ、足元を空けて通れるように動いたのだが、何故か、その観客が動かないでいる。

右隣を見ると、バズーカの砲身のようなレンズを装着したカメラで、ファインダーを覗きながら写真を撮っている人がいるではないか…。
観客は"動かなかった"のではなく、"堰き止められて動けなかった"のだ。

別の人に肩を叩かれ気付いたその人は、ようやく道を空けた。


その一部始終を見て、私は考えさせられた。
「他人に迷惑をかけてまで撮りたい写真なんて、存在するのだろうか」と。


そうした光景に出くわすうちに、いつしか私は、「写真を撮るのは好きだけど、写真を撮る人たちは怖い」というジレンマを抱えるようになっていた。

これは、極端すぎる思考かもしれない。
カメラを嗜む大多数は、そういう人で無いという実感もある。


だけど、カメラに熱を入れすぎるあまり、周囲への配慮だとか、被写体や関係者への距離感が欠ける様を現場やSNSで目の当たりにすると、考えずにはいられないのだ。


どうしたって、プロには敵わない

これは当たり前のことかもしれないけれど、どんな事でも、その道のプロには敵わない。

カメラはド素人な私にも、野球やサッカー、総合格闘技で撮影してるプロカメラマンの方は、当然ながら写真が凄い。


ただ単に、ポジションが近くだからとか、機材が凄いからとかではない。
撮り手の存在が排されていて、被写体が一番前に出るような調和が取られているのが、プロの人たちの凄いところである。

言い方は悪いけれど、プロでないと、「被写体より、撮っている自分の存在を目立たせたいだけなんだろうな」と感じることも少なくない。
(写真のタグ付けとか、ウォーターマークの位置や濃さだとか、転載防止対策なのは分かるけれど、その辺りのセンスに近い面を含め、良くも悪くも写真は撮り手の性格を曝け出す感覚がある。)


でも、プロに敵わないからといって、私は写真を撮ることを嫌いにはならないと思う。

【足るを知る】ではないけれど、一ファン視点だからこそ切り取れるシーンはあると思うし、専門誌には載らない構図を突けるのがファンならでは強みだと私は感じているから。



まとめ

乱暴な言い方にはなってしまうが、写真なんて、客席から撮っているものに関しては大体が趣味の範疇でしかないと思う。


ついでに言ってしまうと、カメラの敷居なんて低いほうが良いとも(勝手ながら)思っている。
私なんか、技術的な所なんて良く分かっていないので、最初に抱いた動機だけでキッカケは充分だと思う。


そして、撮られる側と、客席で撮る側の関係性はイコールではない。
本来、撮る客の方は、撮られる側からNOを出されれば何も出来ない、非常に弱い立場なのだから…。

「たまたま投稿した写真が、関係者の方からエゴサで引っかかって、反応をいただけた」くらいの距離感が丁度良いのかもしれない。
(ただ、これだって、相当距離は近い気もしている。)


それなのに、撮る側の立場が変な方向に強くなってしまった気がする事に、私は何だか皮肉めいたものを感じてしまうのだ。

撮った側の写真を撮られた側が使うとき、トラブル防止で許可とかを貰う人がいる流れは正しい事なのだけど、それが上手に出れる理由にもならないしなあ、なんて延々考えてしまったり…。


こんな事を偉そうに述べてきたが、私は意思が無ければ弱すぎる人間だ…。
冒頭に記している【壁紙のために写真を撮る】のは、そんな弱い自分を制し、戒めるための呪文である。


最後に、私が使っているスマートフォンの今の壁紙がコチラだ。

多分、今のスマホがダメにならない限りは、大谷晋二郎と杉浦貴のマッチアップは変えずに残すと思う。
それくらい、私にとっては忘れられない激闘だったから…。


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