徒然なるままに4(大学生活 前編)

今回は煌びやか?な大学生活とその時感じていたこと、そしてその感情や考え方がどういう環境で構築されたのか、のお話。
大学入学~就職活動をする前頃までの期間のお話である。

前回の高校生活編は下記から。

関東にあるそこそこ有名な私大に入学した自分は、その大学が全国的には優秀な位置づけの大学であるにも関わらず高校の同期と比べた時に学力的に劣っていることから感じる引け目を感じつつも、新環境での生活に心躍らせながら生活を送っていた。
大学ともなれば全国各方面から色んな人が集まり、とても華やかだった。
ファッションにものすごく興味がありそうな個性的な男子も多かったし、女の子もばっちりメイクを決めて、とにかくそこに通う全ての人達がまぶしかった。キラキラしてた。

高校までテニス部でそこそこ一所懸命活動していたので、大学ではそこまでガッツリ打ち込むことはやめようと思って、テニス部ではなくテニスサークルを探すことに決めていた。
新入生を自身のサークルに勧誘するための活動があちこちで行われていて、自分も他の新入生と同様色んなサークルの活動にお邪魔させてもらった。

ただ、やっぱり今までそこそこストイックにやってきていたし、実力もそこそこあったために、一般的に想像されがちなキャッキャウフフのテニスサークルではそこにいる人達も大学からテニス始めてみましたーみたいな人が大半だったり、テニス歴があったとしても自分みたいに「テニススクールも通い、部活もガチでやってました」みたいな人はあんまりいなくて、どちらかと言えば「え、君テニス歴6年なの?それじゃそこそこ出来る感じ?俺このサークルで上手いよ。後でちょっと一緒にやろうよ」みたいな人が多くて、実際に一緒にやったとしても全然相手にならなかった。


自分自身に対してプライドを高く持ってストイックにやってきた自負がある分、遊びでやってきた人とは自分は違うんだみたいな感情が働いてしまっていた。
今でもそうだけどどうしても口や振る舞いばかりで実力が伴っていない人を見てしまうと「あぁ自分とは違うんだな。真剣に取り組んで挫折を味わって泣くほど悔しいと思ったことがないんだろうな」と思ったりしてしまって一線を引いてしまう。

そんなこんなで一通りのサークル見学をしつつ、そのサークル内で上手いとされる人をやっつけて回った結果、各方面サークルから引っ張りだこになって嬉しかったが、最終的に自分の気持ちの中で「物足りなさ」が浮き彫りになってしまった。

入学してサークル探そうって決めた時には「もう真剣にやるのは当分いいかなー」なんて考えていたにも関わらず、結果的に学内で1番強いテニスサークルへの加入を決めている自分がいた。
キャッキャウフフとは対極にあるようなサークルだった。
声だし・ボール拾い全力!みたいな熱血サークル(体育会系サークル)だ。

テニスサークルへの加入の話は一旦さておき、正式に授業も開始され同じクラスのメンバーとも知り合うこととなった。

大学の授業はどんな授業があるよーっていう冊子が配られて、その中で自分が取りたい授業を選択する。
加えて必ず受講しなければいけない授業も存在して(例えば英語とか。いわゆるその学科ごとの必須科目みたいな授業)、その必須科目がクラス単位で授業を受けることになる。
そのため高校みたいに毎日毎科目同じメンバーで授業を受けるというわけじゃなくて、選択科目が同じでない限りは「同じクラス」と言えども必須科目の時しか顔を合わせないことになる。感覚的には授業の総時間を100%とすると同じクラスを意識できるのは10%程度だろうか。
授業選択のシステム的(物理的)にも自由になった、というわけだ。
自身の意思や選択の依存度が高校生活に比べ格段と高くなる。

そんな生活が始まった時に、自分は加入したサークルの同期や先輩と過ごす時間が増えた。
授業が無ければ食堂の決まった場所にサークルの居場所みたいなのがあって、そこで時間をつぶしたりご飯を食べたり。
自然とサークルのメンバーが常に一緒にいる友達となっていた。

全てのものに対しての自由度が高くなったことで必然と他者や何かへの依存度が低くなった。
高校時代では誰からも好かれる自分を演じて、それが当たり前の自分になっていたが、大学生活を送る中で「友達」の定義に少しずつ変化が訪れた。
高校時代の親友が言っていた「好きな奴とだけ絡めばいい」が自分にとってもごくごく自然で楽なことなんだ、となっていた。

あるとき同じクラスでの授業が終わった後、皆その教室に残って何やらぐちゃぐちゃと話をしていた。
何の話をしているかと思ったら、「せっかくだからクラスの皆で飲み会がやりたいんだけどどうしたらいいかな」とのこと。
親睦を深めたいのだそうだ。

そんな話を持ち掛けられたとき自分は「え、そんなの勝手にやればいいじゃん。やりたいやつだけで集まって。」と正直思った。冷たすぎる。完全に心は氷河期だ。
ただそんなことを言ってしまうと折角のハッピー気分に浸っている皆の新生活までぶち壊して氷河期共有してしまうことになるし、わざわざ尖ったことして自分から嫌われるようなことも当然する必要なんてないわけで、「男ならどうしようどうしようモジモジしてんなよ情けねぇなぁ」なんて思いつつ、取りまとめすることにした。
「はいはい皆さん、クラスの親睦深めるために飲み会企画しようと思うんですが、参加どうですかー?興味ある人は〇〇日まで自分のとこ連絡くださーい。」てな感じで。
自分がクラスの皆を取りまとめるために声を上げたことによって、先ほどのモジモジ男子メンバーは目を輝かせて「ありがとうー!助かるよ!」と感謝の気持ちを伝えてきてくれた。
ただその感謝の気持ちをさらっと受け流しつつも、それらの男子がどうしたら親睦を深めることが出来るだろうか、なんとか仲良くなりたいな友達作りたいなという様子は、「この人達は友達を作らなければいけない脅迫概念に囚われているのではないか、友達が出来ないと大学生活お先真っ暗と思っているのか、寂しくて死んじゃうウサギさんか何かなのか」という風に自分の目には映っていた。

人間一人はもちろん寂しい。めでたく大学生活がスタートして、自分を取り巻く環境はそれまでの学生生活で触れ合ってきた規模の人数とは比較にならないぐらい大規模な人口との交流が可能になる環境へと変化をする。
それまでの「友達100人出来るかなー♪」の思考ベースが大学生活になることで「100人?余裕でしょ。本気出せば1000人友達作れるっしょ」の思考ベースになるわけだ。
だからこそ皆が必死に友達作りに躍起になっているのも理解は出来た。
しかし一方で、自分の思考では、例えば「好意を持つ⇒友人になる」、「好き⇒恋人になる」が当然の道理であると思っていただけに、周囲の振る舞いが「同じクラスだから友達にならなければならない。友達を作るのが当たり前。」と見えたし、仮にその思考回路であるのであれば、そこに自身の意思や思考が原動力となって何かしらの形になると考える道理には反する行動を取っているように感じられた。
まぁ一言で言えば「嘘くさい」「薄っぺらい」という風に見えていたってことだ。同時にそういうモノ・コトに対して嫌悪感を抱き始めるようになっていた。

クラスの中でももちろんフィーリングが合うやつもいたし、そういう人達とは仲良くなりたいなと感じて個人的に連絡を取り合ったりするようにもなった。自然と話していて楽しいと感じた人とふざけたり何気ない会話をして楽しいと感じながら過ごす時間も大切な時間だった。

大学生活が始まり、それまでと比較にならないぐらい多くの人と触れ合う機会に巡り合い、自身の意思や選択の幅が広がり自由度が増した自分は、いつしか人間関係においての考え方が高校時代の親友が言っていた「それ」になっていたのだ。
良くも悪くも肩の力が抜け、人間関係における取捨選択が出来るようになった、とでも言うべきか。(同時に自分が考える自然な思考・道理に反する人間に対しての嫌悪感も抱き始めるようになってもいたが)

周囲への若干の嫌悪感を抱き、同時に自然な感情で気ままに過ごす大学生活は非常に気楽で楽しい生活だった。
自分が何をしたいのかどうしたいかを自分と向き合い、自分がしたいと思ったことを選択して過ごす(時には強制的に嫌なことでもやらなければいけないこともあるが、そういう類のものを除けば)。自分と向き合う時間が自然と増え自己理解が進んだように感じる。
自分って何だろう。自分の好きな物って何だろう。自分にとって異性って何だろう。ファッションってなんだろう。みたいな。色んなことを考える時間を過ごしていたように感じる。

以降、少しずつ将来のことも考えつつではあるが、必要な授業を受け、多少のアルバイトを行い(テニスのコーチをしていた)、サークル活動に参加し、空いている時間ではバイト先のテニスクラブで必死にテニスの練習をする毎日を過ごすようになっていた。
入学当初、もう二度と一所懸命やるもんかと思っていたテニスへの熱はいつの間にか高校時代より大きな熱となり、自身を向上させる欲求は果てしない大きさとなり、単なるテニスバカの大学生がそこに誕生していた。

大学3年の就職活動が始まるまでそんな生活を過ごす大学生活を送っていた。

今回はここまで。次回は就職活動時期の「就職・働くこと・仕事とは」に対する思考・考察編。

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