「知」とはなんだろう?(何のために勉強するの?)

ここのところ、何故か「知」について考えている。もちろん理由も目的もない。きっかけは、YouTubeでいくつか講義動画を見た事だろう。(直結はしないけど)
頭で考えてるだけだとすぐに迷宮に入ってしまうので、文章化しておこう。
(もちろん、こんなことは2000年以上前に考えられた事で、車輪の再発明である事は分かっている。けれど考えたんだから残したっていいじゃないか)

「知」とは、「世界を知るための思考行為」であり、その動機は、単純に「好奇心」(= 知りたい欲 = 納得したい欲=共感欲)だと思う*。

「世界」は、
・この 現実世界
はもちろん、
・実在するかどうかわからない 想像上の世界
をも意味している。

「思考行為」は、
ルール(規則の変換法則)を定め
・最初の 規則 を定め
規則ルールだけで新たな 規則 を生み出す行為
を意味している。

以下、この「思考行為」に着目して、「知」を考えてみる。
記述を簡単にするため、 規則 のうち最初のものを 公理、新たなものを 定理 と呼ぶことにする。

まず、「思考行為」ルール公理 は、何を根拠に定めるのか?
それは、「共感」(=無根拠に正しいと納得できる感)ではないかと思う*。
つまり、
・無根拠に〈規則を変換した後の規則が〉正しいと納得できる ように、ルール を定める
・無根拠に〈その規則自身が〉正しいと納得できる ように、公理 を定める
ということだ。

世の中に、ルールは2種類以上あると思う*。
1つは 論理。和|、積&、否定^ とその組み合わせ。
それ以外のルールがいくつあるのか、その名前が何かは、まだわたしにはよくわからないので、論理以外と言うしかない。
(ある、と言うことだけはわかる。もしかしたら、倫理 がそのうちのひとつなのかもしれない。 もそうかも。)

「知」の体系である「学問」は、このルールの種類によって2つに分類できる。
論理ルールとする 科学
論理以外 をルールとする 哲学

科学は、何を公理にするかで更に分類できる。
・数の定義を公理にすると、数学
・動作の定義を公理にすると、物理学
・社会の定義を公理にすると、社会学
etc.etc…
(あくまで「思考行為」に着目した場合)

一方の哲学は…よくわからない。たぶん、わたしの勉強不足。
(もしかしたら、倫理学 や 美学 が分類の一部かもしれない)

と言ったところが、ツラツラと考えてみた内容です。
学生さんとかに「何のために勉強するの?」と聞かれたとき、「将来役立つから」とか「考える訓練」とか答えるより、「世界を知るため」と答えたほうがカッコいいでしょw
ま、「答えが聞きたいわけじゃない」と言われるのがオチかもしれませんけどね。

太宰治は「愛を知るため」と答えたらしい。
さすが、かっこいいなあー
*がついている部分は、根拠が説明できない部分です。
共感できませんかね?
「SF」と言うモノは、
    論理軸と論理以外軸の交わり方に特徴があるモノ
なんじゃないかと考えてみたり。
あるいは
    論理軸と論理以外軸の交わる部分に言及するモノ
とか。

発展して、
    論理軸は客観、論理以外軸は主観
なのかなあとか。
ほら、客観は1つだけど主観は人の数だけあるしさ。

更には、
    共感 は全成員が共通に持っている論理以外軸の総称
とか思いついたり。これはほんと思いつきレベル。​

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