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短編小説「猫を抱こうが猫に抱かれようが」

illustration&picture/text Shiratori Hiro


 そういえば野良猫のミクが三日間も顔を見せなくなったのは九月の下旬だった。高校の修学旅行のときに沖縄のアメリカンショップで買ったキャップを大学生になった今もかぶり続けている。キャップにはアメリカを代表する白頭ワシの刺繍が翼を広げて急降下しており、ワシの頭はオリーブの枝のほうに向けられ、戦争のない平和な世界を願った思いがこめられていたらしいが、ギルトで施したオリーブの枝は薄い汗じみと一緒に中性洗剤で消え去ってしまった。そのため、13の矢だけを抱えた私の白頭ワシはどんなイメージを持ってしまうのかを少し展開しようと思ったが、やめておいた。
元々、好きで買ったわけじゃなかったし、沖縄のアメリカンショップで白頭ワシのキャップを日本人が買うことの意味合いをそのときは全然、理解してなかった。ただ"白頭ワシがかっこいいな"のそれだけ。隣にあったオバマ大統領のキャップだったら、買ってないと思う。つまりはそうゆうこと。

 布団から飛び起きて紺色のベロアのフレアスカート、オレンジ色のショットパーカーを取り出し、パジャマから着替える。蛇口を反対にねぶって、適当に水を口へ流し込んだら、その勢いのまま、ロールパンを放り込む。口の中にロールパンがあるうちに冷蔵庫からピーナッツバターと取り出そうと思って向かうと、さっき脱ぎ捨てたパジャマに片足をとられて、ヒョロっとよろける。よろけた拍子に前かがみになって前方の視界は一瞬でフレームアウトしたようで、こりゃまずいと目一杯、片足を踏み出して、ぐっと堪える。なんとか転ばずに済んだけど、踏み出した足の方からじんわりとあたたかくピリピリしたような感覚が持ち上がってくるようなのでこちらも堪える。その体勢のままピーナッツバターを冷蔵庫から取り出し、指ですくい、口の中のロールパンに乗せた。
それらを食べながら私はどの工程、もしくはどのくらいの月日をかけて、自身の朝食の生産ラインがぶっ壊れたのか考えた。つい最近のことのようにも思えるし、ずいぶん前からそうだったような気もする。でもまぁ結局のところ、水とロールパンとピーナッツバターは私の中に放り込まれたわけで存外、問題じゃないとも思う。こんなシーンで流れるはずの音楽はレッドゼッペリンの「Rock and Roll」だろう。実際にスマートフォンから音量を最大にして再生させる。すると小さいスピーカーから音割れしながらまずジョン・ボーナムがパワフルなフレーズを披露し、バンドが入ってきたところでなんだかテンションが上がった私はロバート・プラントと一緒に歌いながら踊り出した。踊りというかそれは舞に近い何かで、汚くてうす暗い部屋、脱ぎ捨てられたパジャマ、ぐるぐる回る換気扇、そして吸い込まれるタバコの煙、いっつもうるせえ電車の音、そして寝癖の私、それらを全てをセットにして曲が終わるまで踊り続けた。曲が終わり、時計をみると待ち合わせ時間まで迫っていたのでそそくさと身支度をした。寝癖まで治せる時間がなかったので白頭ワシのキャップをかぶって私は家を出た。


 九月は下旬のある午前の日、池川新太という大学の友人からアートギャラリーの留守番をしてほしいと連絡があり、少しの間だけいてくれるだけでいい、暇なときは好きに本でも読んでいてくれて構わないというとこで、私はもちろんだよと引き受けた。普段なら、一度に朝食を口に放り込むような真似はしないし、寝癖を隠すために白頭ワシのキャップもかぶらない。でも私は白頭ワシのキャップをかぶり、目黒川緑道の方へ向かった。友人から送られてきた住所は、桜橋付近にあるカフェのようで、そのオープンスペースの一角を借りて作品を展示しているらしく、そこで私は留守番をするようだ。

 カフェに到着すると、カフェはまだ開店していない様子で私はほっと胸を撫で下ろした。建物は二階建てになっており外壁にはクリーム色のペンキでムラをわざと残すような塗り方がされていて、昨日の雨で目黒川沿いの桜の木の葉が外壁にこべりつき、今日が春の終わりなら、ちょっとはきれいだったんだろうななんて思った。
そしてすぐそばの駐車場にはホンダのN360があり、年式相応の傷やへこみがあったが、オーナは大事に乗っているに違いない。そうでなきゃ、エアコンのない車を何年も乗りずつけることなんてできっこない。一階にはどこのカフェにもある一般的な内装と家具で装い、違うところでいえば、正面にみえる木製の看板だけがやけに古めかしく、常備された聖書ような、またはさっきのN360にあったオーラのような一種の佇まいを覚えたことくらいだった。
すると、カウンターから店の店長らしき女性がやってきた。
「しんちゃんに頼まれた留守番さん?」
「しんちゃん・・・ですか?」
「池川新太」
「あっ・・・そうです。留守番でやってました」
「たいへんね。あなたも」
「別にたいへんじゃないです。暇だったし、いいんです。」
「そうかしら」
「開店まで少し時間があるから、そこで待ってて」
というとその女性は私をカウンターへ案内し、冷蔵庫からジャスミンティーを取り出し、コップに注いだ。私がそれを飲んでいる間にその女性はせっせと店の準備を済ませているようだった。一通り、店の準備が済んだのかその女性は、灰皿を持って
「留守番さんも吸う?」と言って私も2階へ向かった。


 2階はオープンスペースとなっており、本来ならここから目黒川の緩やかな湾曲を見ることができるらしいが、実際のところは緑の生い茂った木々が風景を隠し、隣に4階建てのアパートが最近建ったこともあり、中目黒のおしゃれなカフェのオープンスペースという語呂に間に合う状態に持ち上げていくには大掛かりな工事が必要な具合だった。そして池川の作品もあり、彫刻のものが3つ、水彩が5つあった。彫刻は透明なビニールシートが被せられていて、目黒川の桜の葉と一緒にゆらゆらと風に揺れていた。女性はエプロンの胸ポケットからたばこと2本取りだして、一本を渡した。
「鹿島岬っていうの。私の名前ね。ここの店長やってて、元々はお父さんが大阪の方で喫茶やってたんだけど、ちょっと前に死んで、それ以来、会社辞めて私がやってんの。その大阪にあった喫茶が私の実家のようなものだったんだけど、老朽化でリフォームすらできないって言われて、土地を売っぱらって・・・早口だった?話について来れてる?」
「なんとか」
「そう」というと岬さんは煙を吐いて続けた。
「それで、大阪の土地を売っぱらって、ここを買ったのよ。別にこの辺の土地に思い入れがあったわけじゃないけど、お店を継ぐときにお父さんがどうしても車だけはって言うんで、駐車場のあるところ探したの。あの車ね、エンジンはかかるんだけど、クラッチが滑ってたり、キャブの調整も決まってないしで、全然乗る気になれないのよね。」
「それとエアコンもないし?」
「よく知ってんじゃない!」と岬さんは笑った。
「私は車に興味ないから、全然治せないんだけどね。」
岬さんはそう言って父の残したホンダのN360を大事そうに見つめていた。
「私にもそうゆうの、将来できますかね?」
「そうゆうの?」
「なんていうかまだわかんないですけど、そうゆうお守りみたいなもの。
岬さんは考えるように最後の煙分のタバコを深く吸って、吐くまでの間、眉をひそめていた。それはカーペットのコーヒー染みを見つけたときによく似ていた。頭の中で単純な二択を決めきれないでいるような、もしくは書き初めの『新春』の字の春の字を書き始めるときのようなそんな具合だった。それでも岬さんは煙と共に口火を切った。
わたしはね、東京出身の関西人やから巨人と阪神どっち応援したらいいか、ようわからんねん。お父さんは関西出身で関西弁しゃべるやろ。お母さんは東京出身で標準語しゃべんねん。お父さんが若いころに東京やってきて出会って産まれたんがわたしで、そのあといろいろあって、実家ごと大阪に引っ越したんが9歳。んで妹は大阪産まれのホンモノの関西人。だから9歳差やな。」
さっきとはえらい違いやろと岬さんが言うのでたしかにと言った。わたしはポケットからたばこを2本取り出して一本を岬さんに渡して
「続きが気になります」
というとニカっと笑ってこう続けた。
「そいでね、わたしの家族は関西弁が喋る人が2人いることになんねん。お父さんと妹ね。そして標準語が喋る人は2人。わたしとお母さんね。わたしもこうやって関西弁は喋れんねんけど、まぁ違うねん。喋ると喋れるはちゃうやろ?なんて言うんかな。産まれた場所に人間の魂みたいなもんは固着して、逃げきることができひんって言うのかな。私やあんたが名前を変え、国を超え、性別を変えたところで、そうゆうものがやっぱ心のディープなところにあんねん。たとえ依代を失った神でもな。」
「それってたとえば?」
「ロックやんならビートルズからは逃げられないやろ?わかる?」
「なんとなく・・・」
私はビートルズが音楽史においてどんな影響を与えたのか、体感したことのない世代なのかもしれない。幼少期に車のCDでかかっていたのはミスチルやスピッツ、サザンオールスターズなどでだった。すでにビートルズの素晴らしさたるやを彼らが咀嚼し、パッケージされたその下地の元で音楽の継承が行われていたのだと思う。もちろん、ビートルズを知らなかったわけじゃないし、ボブ・マーリーや、チャーリー・パーカーも聞いたことあるけど、それは聞いたことあるに過ぎない。そう言った意味で岬さんの言ってる意味は少しだけわかるような気がした。
「ビートルズ。聞いたことはありますよ。」
「せやろ。聞いたことあんねん。でもそれ以上もういけないねん。」
「なんていうーかな、この本物?って感じの意味がな。」
岬さんのいう本物っていうはおそらく、言語もしく方言の文化的継承ということなんだろうと思う。
「だからわたしの家族が野球を応援するときは複雑やねん。中途半端に大阪にもおったし、エセ関西弁も喋れるし、かといって中途半端に東京にいて、エセ標準語も話せるから。どっちにも逃げきれないちゅぶらりんな人間になってしまうねん。」
私はこのとき岬さんから発せられた言葉や仕草に内側から燃えるような高揚を覚えている。訓練された人の魅せる独特な技の一種のような何かを。
「それっていいことなんじゃないですか?」
「わたしもそう思ってた。でもお母さんだけは違ったみたいで、わたしがある時、お母さんとくだらないことで口喧嘩したことがあるの。今となっちゃ内容は全然思い出せないんだけど、その時にカッとなってわたし、関西弁が出ちゃったの。そしたら 『岬ちゃんの中にお母さんはいないの?』って言ったの。妹はなんだかんだ産まれてから上京するまで大阪にいたし、関西人でしょう?お父さんはもともと関西人だったし、そういった意味でお母さんはひとりぼっちだったのかもしれないわね。それ以来、わたしはお母さんをひとりぼっちにさせたくないの。一応お父さんもね。」
「だから、岬さんはこうやって東京でカフェやってるんですか?」
「そうね。そしてあの動かないポンコツと一緒にね」


 岬さんはだからお守りなんかじゃないわと言って、たばこを灰皿に押し付けた。思い返すとこのときなぜ岬さんが関西弁であのような話をしてくれたのかは今もわからない。あのときを境に岬さんは関西弁を使うことはなかった。しかしながらあの話を思い出すたびに、当時かぶっていた白頭ワシのキャップのことをよく思い出す。
「そう、ここにしんちゃんの作品があるからわかると思うけど、ここがオープンスペースね。あなたはここで留守番することになってるみたいだけど、見ての通り、日陰が少ないからお客さんがいない時は一階で好きにしていたらいいわ」
「ありがとうございます」
そして岬さんは少しふくみも持った声色で
「あなたも物好きね。しんちゃんが好きなんて」
「いや・・全然そんなんじゃないです!」
「ええやん。別に隠さんくても」



INFORMATION

短編小説 猫を抱こうが猫に抱かれようが

白鳥ヒロ
2001年生まれの巳年

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