一人だけでがんばりすぎていませんか?
エドカフェ〜29回「一人だけでがんばりすぎていませんか」〜
※木村泰子さんの言葉を中心にまとめてみました。詳しくは動画をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=dQ7ZmBRA8E4
一人でがんばってきた自分に問い直し
私自身も大空小に行くまでは、「自分ががんばらなきゃ!」「あれもこれもできてない。先生たちの分も自分ががんばればなんとかなる!」と思っていたときもあった。でも、そのときって、正直、子どもが見えていない。
大空に行って、あまりにもたくさん困った子が来たから、「困っている子が困らない学校をつくるのがまずは優先順位の1番」って考えた時、「自分一人の力でなんか何もできない」って気づいた。そこから私自身は変われたと思う。
先生ががんばればがんばるほど、子どもは「先生がんばってるから自分達も先生にこたえなくっちゃ」「いっしょにがんばろう」って思うと思う。
でも、みんながみんながんばれる社会の中に子どもはいない。みんながんばってるけど自分はがんばれないって思ったら学校行けなくなる。
先生一人ががんばることってすごく大事かもしれないけど、「先生こんだけがんばってるのに、なんで行けないの?先生もがんばるから、学校おいで」って、そんな先生が家に来てくれても、自分はがんばれない。だから次に先生が来てくれても会いたくない。そうやってどんどん先生から離れていくってことがあたりまえに起こる。
がんばるにもいろいろ
がんばりたかったら勝手にがんばればいい。がんばっちゃいけないってことではない。
でも(がんばることを)人に求めてしまう。強要しなくても、がんばってる姿を見た人は、私もがんばらなくちゃって思ってしまう。
自分のために頑張った方が楽しいってがんばってるがんばりと、勝手に誰かと比較したり勝手にゴールを決めたりして、自分を追い詰めていくがんばりと違う。これはこれまで受験戦争をくぐってきて教員になった人は得意ながんばり方だと思う。
「がんばれ」っていうのは簡単。でも10人いたら10通りの「がんばれ」っていう言葉の受け止め方がある。
「これ以上がんばれません」と姿を消す子
学校という居場所がありながら、小学校、中学校、高校、たった去年1年間で、514人の子どもが自殺してるのが今の日本社会の学校現場。
これがあたりまえみたいな顔して、私ら大人が生きてたらあかんと思う。
やっぱり自死って、いろんな人がいろんなところでいろんなこと言うけど、私は大人の役割として、どんなことしても0にしなきゃって思ってる。514人が過去最多って・・・じゃあ100人になったらいいの?1人になったらいいの?って・・・その一人の子の可能性が、あるとき、閉ざされてしまって、自分達が「もうちょっとああやって関わればよかったな」「もうちょっとこうすればよかったな」って思っても、絶対取り返しのつかない事実をつくってしまうってことじゃないですか?学校の人間が。やっぱりがんばれなくって、「これ以上がんばれません」って姿を消す子どもはとても多いと思う。
だから今日のテーマは、なくてはならないすごいテーマだと自分の中で捉えている。
100回の「がんばれ」より1回の「ありがとう」
(「がんばれって言われた時より、ありがとうって言われた時の方が子どもたちの心に火がつく。そういうのを目の当たりにしてきた。」という特別支援学校の先生の発言を受けて・・・)
ハンディをもってる。だからハンディを克服して社会に出るために子どもたちに、「がんばれ、がんばれ」って・・・これってまさに人権侵害だと思っている。
だから「100回のがんばれより1回のありがとう」って、本当にそうだなって思う。
これ、障害のある子だけじゃなくて、すべての人に対して言えること。
子どもの事実がどれだけ見れているか?
「がんばれっていうな」という話ではなくて・・・その子の事実をちゃんと理解して言っているか?ということ。
目の前の子がこんなにがんばってるのに思うように自己実現できない。
じゃあ「がんばれ」じゃなくて「何困ってる?」「私にできることある?」って声かけるのが、その子がもうちょっとがんばろうっていうことにつながるんじゃ?そのへんの子どもの事実が見えてる?
(参加者から出た、「褒められて褒められて社会に出て、褒められなくなったら自尊感情がズタズタになった」という子のエピソードを受けて・・・)褒めて育ててきた学校にも大きな問い直しが必要。でもこういうことを語ると、「じゃあ褒めたらあかんの?」「褒めない方がいいの?」こんなふうに人は二項対立でものを見るけど、そこちゃうやろ?
子どもが褒めて欲しい時に「すごい!」って褒めたら、子どもが自分で言う。「よし、おれがんばるから!」って。
でも、「おれの褒めて欲しいとこみてないやろ?」「褒めればいいと思ってるんとちゃうか?なめんなよ!」って言う子、大空にはいっぱいいた。
子どもの事実を私たちはどれだけ見れているか?
「見れているか?」っていうことは、子どもに教えてもらっているか?ってこと。
学校現場からの声を受けて・・・
まだ現場では正直画一的なものを求めている。
漢字力計算力テスト80点以上取れないと再テストとか、期日までにドリルを○回やりましょうとか・・
がんばること=成長 がんばること=勉強 っていう感覚がある。
自分も先生方にも「もっとやってください!」って言っていた。
子どもたちのことも先生たちのことも見てなかった。
・・・という現場の先生の話を受けて・・・
自律する力をつけるために私ら教員の給料が出ている。
全員に80点以上の点数とらせるためじゃない。
大昔の学習指導要領はそうだったかもしれない。
でも今は、新学習指導要領の学力の上位目標は、「自律する力」って公言している。
障害があろうと、貧困であろうと、友だち叩こうと、0点しかとれなくても、そんなの関係ない。
すべての子どもに自律する力を学力の上位目標としてつける。これが私らの給料。
現場の先生を責めてる話ではない。いろんなところで話しても、「わかっちゃいるけど現実はこうなの」って深刻。
だから問い直しが必要。
80点とるために読みたい本もあきらめて・・・。なんのために探究活動って出てきてる?そんなこともやりたいと思うけど、まず80点とってから・・・って。80点とれなきゃ自律できないって・・・。
「学力」「指導」ではなく、「人権」という視点に毅然と立ったら・・・
私たちはこれまで、「学力」とか「指導」とか、そういう視点でその先生の言葉を聞くからスルーするけど、「人権」っていう視点で毅然と立てなかったら、自殺514人過去最多みたいなこの言葉は消せない。今の話聞いて、「80点とれなかったら子ども自律できませんよ」って、じゃあ宮山さんの学校(特別支援学校)に行っている子は自律できないってこと?
どんなに障害が重くても可能性は無限大。
自律をするための最低限の基礎基本の学力とは?
戦後から続いている「読み書き計算」 これが社会を生きていくための基礎基本っていう。
でも今の子どもたちが10年後の社会を生きていくための基礎基本は違う。
自分で考えて自分で判断して自分で行動して失敗したら他人のせいにせずやりなおす。これが自律する力。
毎日の授業の中で漢字が0点か100点か。そんなの単なる結果。漢字が必要な子もいれば、全然必要ない子もいる。
平等とか公平とかこういう言葉の意味を問い直す必然性も出てくる。目の悪い子にメガネかけるなとは誰も言わない。でも漢字書けない子が「漢字なんて書けなくてもiPad使ったら?」っていうと「ずっこい」っていう。ずっこいっていうまわりの子が育ってたら、そう思いながらそういう子たちと社会をつくっていく。こんなことさせたらあかんのちゃう?
障害のある子が施設を余儀なくされるような、こんな地域社会を子どもにバトンタッチしていくか?
今大きくチャンスだから問い直しをしていかなきゃいけない。
自分が当事者にならなかったら何も変わらない
この夏もいろんな教育長さんといっぱいセミナーをした。
「子どもを見ながら今からみんなで問い直しする」っていう、いくつも未来を感じるところに出会う。
でもそれは、自分の家族や自分の兄弟に特性をもった子がいる。今までこの日本社会を生きてくるのにとても苦しかった。
そういう人が当事者としていると「教育を変えよう!」って一気に動く。
今までとこれからの違いをひとことで言うと?
今までの学習指導要領はこうだった。でも、国際社会から日本の子どもたち見て残念だから、こっちの方向に変えますよ。って4年前に文科省が出してる。
簡単に言えば、今までは先生が主語だったけど、これからは子どもが主語。そこだけ。
「いかに教えるか?」「いかに教材研究してみんなにわからせるようにするか?」ってがんばってきた。
でもこれからは子どもが主語。
30人いたら30通りの今現在の力をもった子どもたちが、この時間にどうアップデートするか?
なにも自由放任とか、遊ばせたらいいとか、そんな話じゃない。
今持っている子どもの力をこの45分でどうアップデートするか?
これが、子どもが主語の授業をするっていうこと。そこだけ!
経験してないことをやれって言われて困っている
私たちって、義務教育の中で「授業のツールは対話」っていう経験をしていない。
黙って先生の話聞いて、一生懸命勉強して、テストでいい点とって褒められてって・・・そんな学校時代を過ごしてきた人間が今、ベテランであれば、「対話なんて、どういうこと?」って・・・
そういう人たちが子どもたちの前で「主体的対話的深い学びを」って言われているわけだから、そりゃあ自分が経験してないことを、やれって言われてるっていうのは、その人たちもすごく困っているっていうことが、とても浮き彫りになってきている。
すべてのツールは対話。じゃあ対話ってどういうこと?
一人の意見をごり押しすること?
「Aですか?Bですか?」多数決で物事を決めてきた私たちの世代は、やっぱり対話はいまいち、自分が納得していない部分があるのかな?って今日は感じた。
一人でがんばっても一人の命も守れないって気づけたら・・・
「漢字テストで80点とれ」って言われたら、「1個しか書けないな」って思う子、「お腹痛い。休みたい」って思う。で、「漢字書けなくても、今の世の中iPad使ったら全部できる。今頃漢字80点みたいに権力もってる先生のいる学校になんでいかなあかんねん?」って学校に行く意味を見つけられない。こんな子どもが全国にたくさんいる。
主体的に考えている子が学校に行っていない。これが今の「不登校」ってレッテルを貼られている子ども。
そういう子どもたちにたくさん教えてもらうから私はこういうことが言えると思う。
本当に学力つけたかったら、大人になって、社会に出て、漢字、計算ができるかできないかが問題ではなくて、漢字を引き出すことができるか?計算の答えを見出すことができるか?それが大事な力。
一人一人の子どもが目指す漢字の学力は、「あなたは明日何点を目指す?」これじゃないですか?
80点てなんで決める?決めるなら100点にしたら?(笑)って・・・
「一人でがんばりすぎていませんか?」という今日の問いを「あなたは目の前の子どもたちの命をあなた一人の力で守りきれますか?」って置き換えたら?
一人でがんばっても、一人の命も守れない無力な私たちの学校現場ということに先生が気づかなかったら、子どもの命守れない。
じゃあどんな力を活用したらいいの?
一人のやれることなんてこんなん(ちっぽけ)や。
だからスーツケース捨てて風呂敷広げよう!
<参考記事>(スーツケースから風呂敷へ)https://note.com/yumbe2525/n/n119740221d9e
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