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焦燥の赤い糸①

帰宅の憂鬱

憂鬱と喜びを引っ提げて、私は自宅のドアを開ける。よく晴れた日差しの中で、風に乗って桜の花びらが散っている。地元に帰省することが、年々億劫ながらも年老いた両親や祖母の様子も心配になってきていた。が、今日に限っては憂鬱の割合の方が多い。地元の友人が結婚と新築祝いを同時にするというのだから、立ち寄ることになったのだ。

 「言わなきゃよかったなぁ……。」

 一人暮らしが長くなると独り言が増えるというのはきっと嘘で、一人暮らしが長くなるということはそれくらい年を重ねるということ。年を重ねると独り言が増えるというのと、ある意味では同義語だと私は思っている。36歳女性で独身。今時それほど珍しくはないだろうが、田舎に住む両親と祖母はあまり良い顔をしない。いい加減アップデートしてほしいものだが、昔から仲が良かった友人までもが結婚するとなればますます肩身が狭くなってくるというものである。
 
 百貨店のギフトショップで予約していたプレゼントを受け取り、電車に揺られて2時間ほどの地元は、新しい真っ白な家と古い昔ながらの家が混在していた。2時間の距離の場所に帰るのも、今の私には大仕事だ。体力以上に、精神力が行くたびに大きく削られてしまうのである。最近削れたのは、4か月前の正月の事だった。親戚中が集まるだけに、あちこちから結婚の話を飛ばされる私はいつも満身創痍のまま、誰もいない冷え切ったアパートに帰宅し、そのまま三が日を終える。

 鍵のかかっていない実家の玄関を開けると母が出迎えてくれ、友人へのお祝いと一緒に買った土産の羊羹を受け取る。いつも通りの近況報告も、時々かかってくる電話の内容と何も変わらずいつの流れで「今日はいい天気ですね」と何も変わらない、もはや社交辞令のような内容になっている。

 「あの子も結婚するのね。結婚式は挙げないのに新築は建ててもらって、もうすぐ孫でも産まれるのかもね。」

 嫌味と皮肉と羨望が入り混じったような母の言いかたは、私をさらに結婚から遠ざける気さえしてくる。悪気などはない、ただ、産まれた時から田舎に住み着いている者のいつものセリフ。
 娘が結婚して同時に新築なんて、どうせ婚前交渉で子供でもできたに違いない。でも、母が羨ましいと思っているものは、友人の母は一度に手に入れてしまったのだ。30代に入ったころから少しずつ増えだした、母の結婚へのごり押しともいえる言葉は、今ならうんざりしつつも何となく理解できてしまう。今はそんな世の中ではないと頭の中ではわかりつつも、望まずにはいられない染みつききった価値観。「うん」と、いつものように短く返して聞き流すことにした。
 
 ふと見ると、羊羹を切り分け台所から話しながら私に皿を差し出してきた母の左手に、糸が絡まっている。ただ結んでいるだけのものなら何かの健康法でもまたハマっているのだろうかとも思うが、どこかに向かって長く伸びているのだ。どこに向かっているのかと視線を向けると行き先は庭先に向かっていて、なぜか窓ガラスを突き抜けて、畑仕事の準備をしている父に繋がっている。
 
 「え、何それ?」
 「え?」
 「その小指についてるやつ。なんか糸みたいなのついてるけど。」
 「糸?何もついてないわよ。」
 
 私の言葉に訝しがりながら、自分の小指を見る母に私も困惑しながらなんとか説明するも、向かい合った顔はどんどん心配の表情に変わっていく。

 「ちょっとあんた仕事のし過ぎよ。ちゃんと休んでるんでしょうね?」
 
 どういうわけか、母には自分にくっついている糸は見えていない。言われてみれば、窓ガラスを突き抜けている糸なんて存在するはずがないのだ。今日はお祝いに行ったら早く寝てしまおう。仕事でも自宅でもパソコンを使いすぎて、目に疲労でも蓄積してしまっているのかもしれない。今まで何もくっつけていなかったはずの自分の小指にも、母と同じように赤い糸が括り付けられていて、かゆいふりをして取ろうとしてもなぜか取れずにいるのだから。

 約束の時間になり、友人宅に向かう途中にもあちこちに糸が飛び回っている。どれも真っ赤な細い糸で、うっかりぶつかってしまっても私の体を突き抜けて何事もないかのようにまっすぐに伸びている。友人の自宅はナチュラルなカラーを基調とした、絵本に出てくるような小ぢんまりとしたかわいい家で、出迎えてくれたふんわりとした優しい友人のイメージによく似合っていた。
 その指も、やはり糸はくっついていて、ビビッドな赤さはミスマッチささえある。今日は友人のパートナーも一緒のようで、一緒に出迎えてくれ、友人の糸の行き先はこの人の左の小指だった。

 運命の赤い糸。

 友人との雑談をひきつった笑顔でしながらも、その存在を信じ始めていた。友人とパートナーの小指に繋がれている1本の糸は、隣り合って座っているからかどこか艶めかしささえ感じてしまい、2人の見てはいけないものを見てしまっているようで目をそらしたくなってしまう。乙女チックな話ではあるが、もうこれくらいしか私には思いつくものはない。幼馴染だった二人の糸がもっと早くに見えていれば、私は少しでも早く結婚の応援ができたかもしれない。それなら、既に糸の先がなくなっている、祖母の小指の先はどこに繋がっているのかと少し興味も出てきたりもする。まっすぐ糸が墓地の地中にもぐっていることを想像したら、ちょっとおかしくなってしまった。
 そして、私の小指の先に繋がっているのはいったい誰なんだろうか。この糸をたどっていけば相手にたどり着くのではないだろうか。母のせっつくセリフは鬱陶しくはあるが、結婚願望は少なからずあるので、できたら電柱に括り付けられているなんてことがないと思いたいが。

 その日の帰り道に、私は自分の小指の糸の先に着いた糸を辿ったのは言うまでもない。都会に近づくにつれて絡み合っている糸から見失わないようにするのは大変だったが、グーグルマップやカーナビの線の引かれた地図の上を、目的地に向かって歩いているようで楽しくもあった。今日一日で何万歩歩いただろう。着いた先は夕日が差す太平洋で、糸の先は大海原に向かっていた。

 「なるほど、出会えないわけだ。」

 糸がお互いに別々の方向に伸びるカップルの存在なんて、お構いなしに私はつぶやく。外国人なら日本にいても出会えるはずがないのだ。しかし、これより先はもはや地球規模で、探すなんてことはほとんど不可能に近い。旅行に行く予定は今のところないし、奇跡的に向こうが来てくれることを願うしかない。それはいったいいつになるのか。
 諦めと問題が解決したさっぱりとした気分になりながらも、帰路に着く。潮風と波の音を聞いたのは久しぶりだった。今までと違った足取りは、ようやく春らしさを取り戻したかのようで、私の背中を押した。私はきっとこれからもずっと一人だし、結婚はもうない。仕事も安定しているし、楽しさも見出せている。どうせなら、この赤い糸が見えるのをいいことに、占い師でもやってやろうかと思う。日差しに輝く赤い糸を眺めながら、どこか開き直った気持ちになっていたのだった。
 


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