生きる意味#5-3

生きる意味#4(望まれない児童会長)で振り返った記憶。
幼年期の中で、わたしの人生を最も強く方向づけたであろう、あの記憶についてまとめるため、メモワール分析として綴っているシリーズの3回目。

2回目では分不相応な児童会長に挑戦した後、どうして努力を継続することが出来たのか?そのエネルギーについてまとめた。

モチベーション①
成功体験による自信と次の成功体験への希求

モチベーション②
死ぬほどに追い詰められたことによるモガキ

この二つが、AD.HD.LDをもつ児童だったボクを突き動かしていたようだった。
そして、①と②では②の方が圧倒的優位なエネルギーとなっていて、②のような感情が強いエネルギーになったのは、当時のボクが非常に強い承認欲求を持っていたからだろうと締めくくった。

今回は、②と承認欲求の関係を紐解きながら、後に訪れる精神的挫折への道を追いかけてみたい。

心理学的「承認欲求」

わたしが主に学ばせていただいている「T.A(交流分析)」の源流に当たるマズローの人間性心理学では、承認欲求とは集団から価値のある存在と認められ尊重されたいという欲求であり、尊重欲求とも呼べるとされている。

尊重は、低レベルなものと、高レベルなものに分類できるとされ、実はモチベーション②が低レベル、モチベーション①は高レベルな尊重欲求だと言える。

高レベルな尊重欲求とは近年よく耳にする「自己肯定感」や「自尊感情」などに類したもので、低レベルな尊重欲求とは、他者からの尊敬、地位・名声・利益・権力・注目などの欲求で、精神衛生的に危険な欲求とされている。

モチベーション②の字面をなぞってみても、危険であることは、容易に想像がつきそうだ。

モチベーション②がなぜ承認欲求なのか?

死ぬほどに追い詰められたモガキがなぜ承認欲求によるものなのか?
この構造は連想しにくいかもしれないが、そんなに難しい論理ではない。

死ぬほどに追い詰められた理由は「価値のない人間は生きていてはいけない」というボクが自身にかけた呪いにも似た命令によるものだった。

これは逆に解せば「死にたくないからボクを認めて!」という強烈な承認欲求(低レベル)に他ならない。

余談になるが、承認欲求にはもうひとつ、悲劇的な状態があるとされている。
それは、承認欲求が強烈であるあまり「どうせ叶わない」と諦めてしまい、その現実から逃避するために「自分を偽る」などの規制を働かせ、虚ろな人生を送ってしまうというものだ。

思い起こすと、児童会長を経験するまでのボクは、見事にそれに当てはまっていたと思われる。

だからやはり、この後にどれほど痛い経験を負わされることになったとしても、児童会長という任を与えてもらったことは、わたしの人生にとって、とてもとても有り難い偶然だったと感じる。

低レベル承認欲求をエネルギーとした努力の末路

児童会長としての努力をし続けたボクのエネルギーは、周りにバカにされたくない、児童会長として「立派にやっている」「立派だった」と認めてもらいたい、でなければ、ボクは生きることを許されない、という思いだった。

マズローの心理学的に言えば、低レベルな尊重欲求をエネルギーとした努力だった。

その努力は次々と報われていった。
少なくとも報われているように見えていた。

授業が難なく理解できるようになり、テストも軒並み90点以上になっていたように記憶しているし、先生方の助力もあって、児童会長の任務も、目立った失敗もなく、順調にこなしていたように思う。

5年生までのボクを知る先生方の、ボクに対する態度も、180度変わっていたように思う。

特に、神職の家柄でいらしたT教頭先生が、ものすごく高く評価して下さっていて、わたしの母と出会う度に、息子さんは素晴らしい!と母の子育てをも褒めちぎって下さっていたことを、わたしが大人になってから母から聞いたりもした。

そして、10月某日、前期児童会長のすべての任務を終えて、職員室で先生方にお褒めの言葉をいただき、ボクは「ありがとうございました!」と頭を下げて職員室を後にし、カバンを取りに行くため、3階の教室への階段を昇った。

そして忘れもしない、階段を昇り終えるか終えないかの時。
6年生の教室からクラスメイトの話し声が漏れ聞こえてきた。

「まさとしくんの児童会長、終わったね」
「うん。よかったぁ。ホントどうなっちゃうん?って思ったもん」
小声だったが確かに聞こえてきた。

いやいや!
今となれば「そりゃ、そだろっ!」と思う。

それに、ボクの児童会長は、クラスメイトからしてみれば、何の面白味もない、クラスが結束することもない、つまらない児童会長だったに違いない。

なぜなら、ボクは、クラスメイトに頼れず、常に先生に相談し、指示を受けて、それをこなすだけで精一杯で、クラスメイトと相談し、児童会や6年生で「母校をこうしていこう!」「運動会をこうしていこう!」「球技大会をこうしていこう!」などと自主的に働きかけることも一度も出来なかった。

クラスメイトにボクの能力のなさを感じられることが怖かった。
クラスメイトを信じる力が全くなかった。

だから、漏れ聞こえてきた声そのままに思われるのは当然の児童会長だった。
そうだったんだけども・・・

その時のボクにとって、そのクラスメイトの声は「生きるな!」と同じ意味に聞こえたのだろう。

ボクは死ぬことが怖かったんだろうと思う。
だから児童会長を務めたことを、瞬間的に「なかったこと」にしてしまった。

その言葉をまともに受け止めたら、ボクは死ぬより他なかった。
だから逃避行動をとって心を守った。

こんなに必死にやっても認められない世の中なら、二度と人のためになど努力するものか!と自身の至らなさをクラスメイトの責任へと転嫁し逃避した。

このように、低レベルな承認欲求による努力は、他人のジャッジによって、あっさりと無価値なものへと落とされ、怒りや悲しみを心に滲みつける結果となる危険をはらんでいる。

いや、もしかすると、必ずそうなると言えるのかもしれない。
なぜなら、他人とは常に自身に対して不理解であるの必然だからだ。
自身ですら、自分のことをしっかりと理解できないのに、他人がしっかりと理解してくれる割合はそれほど高くないと見るべきだろう。

お釈迦さまが「一切皆苦(すべては思うようにいかない)」と仰るのも、このような必然があるのもひとつの要因のように思う。

マズローは低レベルな承認欲求を長く持ち続けるのは危険だとしているが、この「長く」というのは、重要な意味合いを持つ気がする。

短い期間ならあまり問題はないが、長く持ち続けると、他人からの不理解な心や言葉を浴びせられるリスクが高くなるからではないだろうか?

高レベル承認欲求がエネルギーだったら?

低レベルな承認欲求をエネルギーとして努力をした場合、挫折などの残念な末路を辿ることが多いと考えたが、もし、ボクが高レベルな承認欲求を主なエネルギーとして、児童会長としての努力を続けられていたら、どうなっていたのだろうか?

つまり、モチベーション①を主なエネルギーとしていたら?というシュミレーションだ。

綱渡り状態の児童会長だったボクのことを思うと、エネルギーの質は違えど、おそらくは実際の場合と変わらない経過を辿っただろう。

そして、職員室を出て、あの漏れ聞こえる小声と出会ったとする。

ショックを受けたことは間違いない。
だが、責任をクラスメイトに転嫁するようなことは起きなかったのではないだろうか?

高レベルな承認欲求をエネルギーとしていたボクなら、なぜクラスメイトからそのようなことを言われたのか、そこから自身に足りなかったもの(課題)を見つけて、再度、挑戦と努力を試みて、ハードルを越えた時の自分に出会いたいと望むようになっていたのではないだろうか?

必ずそうなっていただろうとは言い切れないが、その可能性は充分にあったと思う。

過去の勇者に感謝

承認欲求の「尊重されたい」という想いが、高レベルであるか低レベルであるかで、その人がキャッチする情報も、選択する時の判断基準も、大きく異なってくるだろうことが、ボクが児童会長として努力したエネルギーの質と、その結果から、感じ取ることが出来たように思う。

今のわたしは、他人に自分の人生の価値をジャッジしてもらおうとはしなくなっている。

だからといって、尊重されたいという欲求を諦めたわけでもない。

今のわたしをジャッジするのは常に、過去のわたしである。
昨日のわたしが今日のわたしをジャッジする。

「おおっ!昨日より良くなったじゃん!!!」
「まぁ、あんまり変わんねぇな(笑)」
「今日はダメダメやなぁ~(笑)」
いろいろとジャッジしてくれるし、褒めもすれば、激励もしてくれる。
そして、いつも、こう囁く。

前と比べたら、すげぇ良くなったよな!
まだまだ、ダメダメだらけだけど、それでもそれなりに幸せそうじゃん!?
ってことは、おめぇ、今よりまだ良くなるってなら、もっと人生楽しくなんじゃねぇっ?
生きてりゃ最高だな!

と、自身のダメな部分が見つかるほどに、可能性を感じるようになっている。

かつてのボクと今のワタシのどちらが好きか?
もちろん、それは今のワタシ。

そして、今のワタシは、過去のボクが積み上げてくれたすべての結晶。

あんなに辛かったのに、苦しかったのに、よく踏ん張って、人生を運んでくれた。

過去の勇者であるボクに、今、ワタシはとても感謝している。

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