生きる意味#3

生きる意味#2では、わたしが「生きる意味や価値」を人生の傍らに置き続ける出発点になった記憶を振り返った

生きることに価値を見出す、人生の価値を高める、自分を磨く・成長させる・・・

そのような側面から見ると、生きる意味や価値を追求するというのは、とても良いことのように語られそうな気がする

でも
森羅万象に陰陽あり
この言葉にあるように、物事には、常に陰陽がつき纏う

生きる意味や価値を追求するという素晴らしく見える事柄も、その本質を見誤ると、負の連鎖を招く最初の歯車となってしまう

そう強く感じさせるエピソードが、わたしの小学生の歴史に見つけられた

価値のないボクは×(ばつ)

AD.HD.LDを持っていたわたしは、小学3年の頃までは、天真爛漫を絵に描いたような少年だったと親兄弟から語られる

ところが、生きることには価値が必要だと指令を受け取った(思い込んだ)わたしは、小学4年の頃から、やたらと周囲の視線を気にするようになったと思い出される

かなり幼い頃、10歳と8歳年上の兄から「お前は長浜の橋の下で拾われてきたんや」と泣かされても、その時はそれほど気にしていなかったというか、忘れてしまっていたのだが、小学4年の頃からは、親兄弟の視線まで気にするようになっていたと思う

小学5年の夏休みに、産後の療養に実家に戻っていた姉に、2(5段階)ばかりが並んでいる1学期の通知表を見られ「お前、ホンマに私らの弟なんか?」と告げられた時の心の動揺は、今でもはっきりと覚えている

ボクはこの家の子じゃないかもしれない
ここにいちゃいけない子なのかもしれない

その疑念は、声変りをした中学2年の頃まで、心のどこかに居座っていた

人の心理というのは、いかにも脆(もろ)いもので、なにかひとつ方向性ができると、すべての出来事や記憶に対して、その方向性にヒットするものばかりを受信し、強化するようになってしまう

ボクはこの家の子じゃないのかもしれない
だからボクだけ太っている
だからボクだけ年が離れている
だからボクだけ運動が出来ない
だからボクだけ勉強が出来ない
という負の出来事だけではなく、大事にされたりすることですら、ボクはこの家の子じゃないから特別扱いをされるんだ・・・などと、普通では有り得ないようなことまで考えてしまう

ほら、やっぱりそうなんだ
ほら、やっぱりダメなんだ
やっぱり、やっぱり、やっぱり
とその方向の出来事ばかりを追い求めるように捕まえてしまう

このような心理状態に陥いる原因となった最初の歯車は「無価値なお前は×(バツ)」
「生きる価値の追求」=「価値がない生き方は失格」と結びつけた負の歯車だった

例えば
勉強が出来ないお前は無価値、だから×
運動が出来ないお前は無価値、だから×
役に立たないお前は無価値、だから×

そして、そのジャッジ(評価)を下すのは、いつも他人だった
わたしはその頃から、他人に「自分の生きること(命・人生)」をジャッジされる存在となった

わたしは他人のジャッジにおびえながら生きるようになっていった

そしてわたしは、小学6年生に、その象徴的な体験をすることになる

次回はその体験、「望まれない児童会長」について振り返ってみたいと思う

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