生きる意味#5-1

生きる意味#4では、望まれない児童会長というタイトルで、わたしが小学6年の時に、偶然がいくつも折り重なった末に、分不相応な児童会長に選任され、その結果、心を大きく歪めてしまった経験を認めた。

二度と、誰かのために頑張ったりするもんか!
あの時の誓いは、わたしの意識の深い部分に刻み込まれ、その後、30年もの長い時間、わたしの背中に亡霊のようにしがみついていた。

だが今では、あの経験を与えてもらったことに、とても感謝している。
クラスメートからの死刑宣告とも受け取れたあの言葉も、わたしの耳まで届いてくれて有り難かったと思っている。

そう思い至った理由を明らかにするために、今一度、あの経験を分析してみたいと思う。

ひとつ・ひとつが長くなりそうなので、今回を「メモワール分析#1」としたい。

どうして逃げなかったのか?

児童会長に選任された6年生のボクは、まだ九九の七の段が怪しいという、どっぷりと学習障害にはまった児童だった。

いくら、担任のK先生が「一緒に頑張るから」と言ってくれたといっても、それだけでやる気が出るようなものではない。

いったい、何がボクをその気にさせたのだろう?

今のわたしが、あの時のボクを見つめてみると、きっと、こうなんだろうなぁ~と、思うことがある。

ボクは、きっと、小学校の中学年の頃から、いろいろなことを諦めていた。

ボクはバカだからダメ
ボクはデブだからダメ
ボクはノロマだからダメ
ボクは弱虫だからダメ
ボクはダメだからダメ

どうせボクなんか、なにをやったってダメなんだし、目標とか持っても出来ないに決まってるし、なるべく挑戦しない方が良い。と、諦めることで、自分の心に平穏を創り出そうとしていたことが感じられる。

これはあの、生きるには意味が必要生きるには価値が必要というプレッシャーが、失敗ばかりを繰り返すボクを殺してしまわないように、逃避という防衛行動をっとっていたと見ると、自然だ。

「出来ないと生きている価値がない」と思い込むボクの心が、「出来ないボク」を殺そうとするから、殺されないように「出来ないことはしない」と決意した。
そのように言えば、わかりやすいかもしれない。

ボクはチャレンジすることに極端に消極的な子どもとなっていた。

でも、きっと、本当はチャレンジしたかったに違いない。
だって、この時のボクだけでなく、わたしたちは誰だって、生まれた瞬間はほとんど何も出来なくて、何度も挑戦と失敗を繰り返し、いろいろなハードルをクリアして、今があるんだから。

立って歩くことも、言葉を話すことも、すべて挑戦と失敗の繰り返しで勝ち取った能力だ!

ボクはもっとチャレンジしたかった。
生まれてからずっとそうだったように。
そう、心の奥底で願っていた。
でも、殺されたくなくて、チャレンジすることを回避し続けていた。
そんなボクに児童会長という役職とK先生が、チャレンジすることに対して強制と支援(味方)という後押しを与えてくれた。

ボクはきっと「このチャンスを逃したくない!」と感じたんだと思う。

メモワール分析#2では、決断の先にある、努力の継続について分析する。
いったいボクは、どうして努力をし続けることが出来たのか?
そのエネルギー源についてまとめてみたい。

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