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「頑張って」の使い方

たまに「精神的に辛い人を応援するときに『頑張って』と言ったらダメなのか?」と聞かれることがある。
そのような質問に対する僕の返答はたいてい変わらない。
「精神的に辛い状況では、視野や捉え方が狭くなったり、気持ちに余裕もないことがあるため、避けた方が良いかもしれないですね」という感じで返答し、続けてこう確認している。

「あなたは、何を伝えたくてその言葉を使うんですか?」

この質問にすんなり答える人は少ないが、きちんと聞いていくと話す側なりの想いや真意というものが隠れており、良かれと思って言っていることがほとんどだ。
なぜ、この質問をするのかというと、そこが一番、言葉にして伝える部分であると感じているからだが、実際にはそこまで伝えずに「頑張って」で終わらせてしまう人も少なくない。

そうなってしまう理由としては、話す側が『ラクしたいだけ』(意識していないと思うが)なのではと考えている。

「頑張って」
この言葉は比較的使いやすい。
その一言で応援や励まし、味方であるという意思表示ができる。もっといえば背中を押してあげたという話す側の満足感などもあるだろう。
または、伝えたいことはあっても「どう言えばいいか」「こんなこと言っていいのかな」など、色々考えてしまって、とりあえず「頑張って」と言ってしまう場合もあるだろう。
そこには悪気はなく、良かれと思って使うことの方が多いように思うが、この言葉を不快に感じる人がいることがわかり、「頑張って」について考えるきっかけとなった。

今から約7,8年前に勉強のため、とある障害の当事者会に参加させてもらったことがある。グループで最近の困りごとなどを話し合う時間となり、そこで僕から「支援者に言われたくない言葉はありますか?」と質問をしたところ、向かいに座っていたうつ病の女性にこう言われた。
「頑張ってや頑張れなどの言葉はキツイ。」
「頑張ってと言われるのは突き放されているようで辛い。『一緒に』頑張ろうなら嬉しいけど…。」
「病気と向き合いながら頑張ってるのに、これ以上、まだ頑張らないといけないのかと思う。」

良かれと思った一言も、人によって、これだけの想いを持たせてしまう可能性があるのかということがわかり、言葉は単に使えばいいのではなく「考えて、きちんと伝えること」が大事なんだと感じた。
冒頭に書いた「あなたは、何を伝えたくてその言葉を使うんですか?」と確認するようになったのは、この出来事があったからだ。

その女性の言葉にうなずきつつも、ふと思った。
「スポーツ観戦の時は頑張れとか使うけど、それと何が違うのかな」と。
おそらく、スポーツ観戦の「頑張れ」は「叱咤激励」というニュアンスで使い、端的で想いも伝わりやすい。逆にスタンドから長々説明しても伝わりにくいだろう。
このような「叱咤激励」のイメージが「頑張って」の言葉に紐づいていると、たしかに精神的に辛い状況での叱咤激励ほど辛く、追い詰めるものはないように思う。

話を戻すと、僕が『ラクしたいだけ』と考えるのは、相手の状況などを十分に考えずに「頑張って」の裏にある色々な想いを端折って「頑張って」の一言に内包し、受ける側に解釈を委ねているのではと感じているからである。

話す側だって純粋に応援したい、力になりたいという想いがほとんどなのに、言葉の真意が伝わりきらずに、逆効果になるのは本当にもったいないなぁと感じている。
時間や心に余裕がないときに、丁寧に伝えることは難しいかもしれないが、相手の置かれた状況や状態(ものの捉え方、余裕など)を考えつつ「頑張って」に、ほんの少し言葉を付け足すだけで受ける側の印象は変わると思う。

どうしても精神的に辛い時はものの捉え方も狭くなったり、悲観的になってしまうこともある。そこを理解し、その人を想うのであれば、「ラクせず、考えて伝える」ことが良いのではないだろうか。

かず

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