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不確実性のなかで、どうすれば動けるのか

(わたしの、です・ます調と、だ・である調は気分で変わるのでご容赦を)

昨日ふと、また、ネガティブ・ケイパビリティについて少し考えていた。いや全然ネガティブ・ケイパビリティのことは詳しくないのだけど、ネガティブ・ケイパビリティについて考えるといつも同じところをぐるぐる回っているような気がするので、書くことでマイルストーンにしておこうと思う。

「ネガティブ・ケイパビリティ」と言っているけど、少し具体的にすると、私がここで考えたいのは「正解が分からないこと、不確実なことをどう進めていくのか」ということだ。

正解が分からない状況でとれる選択肢はそれほど多くない。
・正解にたどり着くまで考えつづける
・強引に正解をつくる
・あきらめる
・待つ
・とりあえず、やってみる
こんなところだろうか。

わたしの周りには正解を求め、すぐに正解を知ることが価値であると考え、正解が無いことに時間を費やすのは無駄だと思っているひとがいる。わたし自身はそういう考え方ではないので、少しストレスに感じることもあるが、考え方はひとそれぞれなので無理に考えを変えてもらいたいとも思っていない。

でも、わたしの経験では、たぶん正解がわからないことを続けることが、何か豊かに生きることに繋がっていると感じているんだよね。

昨日少し話していたときに、私の20代は正解を探すためには専門性を深める必要があると思っていて、30代の後半では問いを見つけるためには総合力が必要なのではないかと思っていた、というような話をした。

それが正しいかどうかは分からないけど、43歳になって感じるのは、世の中には正解が無い、または今は正解が分からない、またはすぐには正解が出ない、そういうモノゴトが沢山あるということだ。そして正解がすぐに分かりそうにないからといって、そういうモノゴトから距離をとるのはすごくもったいない、そうじゃない?

これは少し「信じる」ということにも似ている。

なにか正解が分からず不確実なことを進めようとするとき、背中を押してくれのは信じることだったりする。この道はどんな道でどこに繋がっているのか分からないけど、その道の先になにか良いことがある、それを信じて一歩を踏み出すのだ。

そしてそれは、進んだ先にあるものを信じることと同じくらいに、自分を信じることでもある。

ここを進んだ先にある結末だけでなく、そのプロセスやそのなかで起こる出来事を、自分が受け止めプラスに変換・編集できることを信じるのだ。

少しネガティブ・ケイパビリティとは違った話になってしまったけど、とても大切なことだと感じたので、とりあえずここまでは考えたよ、というマイルストーンとして置いておきます。「とどまり続けることに耐える能力」としてのネガティブ・ケイパビリティのことはまたそのうち書きましょう。中動態と合わせて考えてみたいな。

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