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視野の広さは「経験x想像力」


視野のひろい人間になりたいとおもう。

視野の広さは、経験と想像力の掛け算で決まる気がする。視野のひろい人は、大きな視座で物事を見ているし、一方向じゃなくて、多方向から物事を見れているから、話していて楽しいし、なりより頼りになる。そんな人は、いろんな経験をしてきて、それにレバレッジをかけているような気がするのだ。

というのも、前回もかいたけれども、こんなふうになりたくなってゆうふうに思う人は、視野が狭いのかなって思うことが多いからだ。でも、視野の広さってなんだろう。しかも、“ただただ広い”んじゃなくて、“深さ”みたいなものも必要だ。とくに、誰かの気持ちを理解する場合なんかには。深さもくるめて、“面積がひろい”みたいになる場合には、どんなことで構成されているのだろうか。


自分で経験したことは、身を以てわかるので、人に寄り添える。

ひとつは、経験だとおもう。差別をされたことがある人は、差別について敏感になるし、自分がされていなくても、周りにそうゆうことがないか気に配ることができるかもしれない。

一方で経験は目に見えるわかりやすい形とは限らない。外国で多国籍のチームで働いたりしている人と、地元でずっと同じ仕事をしているひとでは、仕事にたいしての経験はきっと違う。しかしながら、たとえば、地元にきているいろんなひとから、いろんな仕事の話をしていれば、それもその人の経験のひとつだ。もしかしたら、読書をとおして経験するかもしれない。つなわち、経験は外からは簡単にわかるものではないなく、いろんな形があるものだ。そしてそれらは、その人の理解の幅を広げてくれるとおもう。

実際に、とても困った時助けてくれた人に、「自分もそうやって困っていたことがあるからね」と言ってくれる人が多かったこともある。そんなふうに、誰かに支えられたことを次の人にバトンタッチしていったりもできるのだと思う。


同じ経験をしても、感じ方が違うのは、想像力の幅なのかも

一方、同じ経験をしても、ひとによって感じることは違う。それは想像力なのではないかな。もしくは頭のやわらかさとは、オープンさみたいなものとか。

それはのちのち身についたものなのか先駆的なものなのかはわからないけれど、ものごとをすごくフラットに受け止められたり、できなかったりする。そしてそれは、受け止められない側からは、受け止められる側のひとのことをわからなかったりするのだ。視野のひろさって、そうゆうものだとおもう。

これは知性にもあてはまる気がしているのだけれど、相手に知性があるかどうかって、だいたいはなしていたらわかったりする。ものごとの気に返しだとか、考えることがすきなのか、それとも一般論で白黒片付けてしまうほうがすきなのか。そんな考え方の癖とか頭のキレみたいなものがわかったりする。

そんなときはたいてい、自分と同じレベルのひとはわかるのだけれど、すごく自分によりレベルの高い人はブラックボックスみたいに感じてしまうことがある。そのひとのいっていることがわからなくて、1か月頭のなかに残っていたあとに「あ、そうゆうことだったのか」というふうにやっと譜におちたりする。そんふうに、視野の広さや知性って、もっていないひとにはわからないものなのだ。もちろんわたしもよく、あのひとのゆっていることを理解できていないなっておもうことがある。ただ、「今はわからないけれど、将来わかるかもしれないこと」として、ストックしておければ良いと思うの。


つまり、視野の広さは何事も経験すればいいってことじゃなくて、「それを受け止めて、周りの立場になって考える」もしくは「自分以外のことに想像力を働かせる」みたいなことが大事になってくる。そんなふうにしつつ、すぐ行動してなおかつ想像力のある素敵な人になりたいと思ったりしています


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