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理不尽なことにあったとき


なんだか理不尽なことにあったとき、そしてそんなふうなことにうまく対応できなかったとき、とても悲しくなることがある。

立場上言い返せないとか、ほかに守りたいものがあるとか、大切なこととためとか理由はあるけれど、理不尽なことを不甲斐ない思いをしながらぐっとのみこむことってあるとおもう。

そんなとき、そのどうしようもない気持ちを持て余してしまうので、「こうはなりたくないリスト」にそんな行動をかきこむことにした。もちろんそれは、自分じゃあたぶんしないような(そうだと思いたい)行動だ。だけれど、もしかしたら年をとったあと、立場が強くなったあと、もしかしたら似たようなことをしてしまい、気づかないかもしれない。だから、「自分は絶対にならないぞ」という意思を込めて、をこうはなりたくないリストに追加する。

リストをたくさん書いてみて気づくことは、なんだか結構わたしは不満に思っているところが多いみたいだ。そうやって書いてみると、「そんなに不満が多い場所にいるのを選んでいるのは自分でしょ?」ってことも出てきたりして。自分だって、問題を直視して解決しようとしていなくて、文句ばっかり言っていることがわかってくる。理不尽な思いも、ちょっとは役に立ったりするものだ。


相手に理不尽を強要する人って、世界が「俺・わたし」で完結していて、第三者の目線がないのかも

加えて、少し思ったことがある、こうゆう行為をするときやひとって基本、第三者の目線がないのだ。なんとゆうか、すべて自分が中心だったりするのだ。彼・彼女の中には彼らの正解がひとつあって、それ以外の世界観は存在していない。だから、わたしからみたら理不尽なことではあっても、彼らの中では「ごくごく当たり前の正論」を話しているつもりだったりするのだ。

これはあくまでわたしの想像ではあるし、その人の頭の中を知ることは多分できない。だけれども、ずっと「俺はわたしは」と話し続ける割合が多い場合は、かなり世界観が自分中心になっているし、そんな風にしか物事を見れなくなっているのじゃないだろうか。

結構前に読んだことがあるのは、「人は鬱になると、自分のことしか見えなくなる」ということ。自分がすごく辛い状況なので、「わたしはわたしは」となるらしいのだ。「わたしはこうで、助けて欲しい」というのは、わかる気がする。なので、主語が全部自分になりだしたら、気をつけたほうが言いよって。本当かどうかわからないけど、そうゆう見方もあると思う。


理不尽を撒き散らす人は、ただただ現状が幸せでいことに不満で、幸せが欲しい人なのかも

そう考えると、「理不尽を撒き散らす、ちょっと嫌な人」はもしかしたら、多分、寂しかったり、現状に不満があるだけなんじゃないだろうか。多分、現状が自分の思い通りに行かなかったり、幸せになっていないのを、周りの人に助けを求めているというか、発散しているだけなんだと思う。

もちろん、当たられるこちらとしては迷惑ではあるけれど、結局、多分、寂しかったり、幸せになりたいだけなのだ。

そう考えると、「自分が自分で幸せでいること」の大切さを感じる。自分がそのままでもハッピーであることは、周りのことを考える余裕を産んで、周りのことのハッピーにできる。

逆に、いっぱいいっぱいになってしまうと、周りから幸せを奪ったり、迷惑をかけてしまうことになる。

大変な時は、それでも良いと思う。仕方のないことだってあるし、成長していく中でそうゆう時期は多分、さけては通れない。でもでも、ある程度大人になって成熟した時に、「自分自身もハッピーで、周りにもハッピーを届けられる人」でありたいと心底思う。そうゆうのが格好いい大人であると思うから。

そんなふうにして、理不尽な行動をする人をみると、「わたしはちゃんとハッピーな人生を送るぞ」って、自分を励ましたりするのだ。


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