短編2 犬

いつから付いていたのか、誰が付けたのかは、もうわからない。外に出る度に感じる、透明の拘束具の重みに耐えながら1日を過ごし、出来るだけ知り合いに気づかれないように首をすくめ、鉛がついたような足を引きずって今日も帰宅する。自宅の扉を開けると、飼っている犬が潤んだ黒目で僕をしっかり捉え、口角を上げて舌を出して、ピョンピョンと踊るような足取りで跳ねながら僕の元に真っ直ぐと走り寄ってくる。ただいま。帰ってきたよ。僕は拘束具が外れ、体が軽くなったことを確認すると、口を大きくあけてはしゃぎながら僕に身体をすり寄せてくる犬の顔を両手で包み込んでわしゃわしゃと撫でると犬は嬉しそうな声を出し、愛おしそうに僕の手に顔を更に擦り付ける。犬だけは僕のことを心から好きでいてくれる。犬だけは僕自身を見てくれる。犬だけが僕のたった一人だけの親友であり、恋人であり、家族である。そして、この世界でどうにかやっとの思いで、もがきながら生きる僕が、関わることが許されたかけがえのない他者である。こんな僕を、人はまもとに他者との関係を築くことを諦めたできそこないとして笑うだろう。自分より下の人間を見て安心するコンテンツとして、娯楽を享受するだろう。笑いたければ笑うがいい。僕自身を捨て、「人間」の一員になるぐらいなら、僕は自分の人生を道化として彼等に差し出す。人間は恐ろしい。この世界に存在する二足歩行の動物の皮を纏った、得体の知れない悍ましい化け物。彼等は数ミリの程度の黒い粒を二つもっている。その小さな粒で「獲物」と判断した者を確実に捕らえ、決してその黒い粒の認識する範囲外に逃げることを許さないのだ。それが瞳孔である。瞳孔の周りには、薄暗い街灯のように黒い粒を照らす白目がある。それらは、生暖かい血のような嫌な温もりを持ち、視界に入った獲物を見透かすような能力さえもってるように感じられる。これが目である。僕は「それ」が怖くて怖くて仕方がない。それで僕のことをじっと見られてしまうと、もう駄目なのだ。僕は今にもその場から逃げ出したくなるような、無限に広がるブラックホールのようで正体のわからない大きな恐怖に、あっという間に飲まれてしまうのだ。それだけではない。人間は、ガタガタの小さな骨が無数に無造作に並んだ、粘液だらけの真っ赤な壺を、自身の体内を恥ずかしげもなく公衆の前で大きく開閉させる。口だ。僕は「それ」を見るたびに醜悪のあまり自身の目を覆いたくなる。それで僕を笑い、時には罵り、他の化物に伝達する。僕はそのような状況を見てしまった時には、心臓をヒュッと貫かれたような気持ちになる。それに伴い、腹の底から何かが湧き上がっては沈んでいくような、胸焼けのするような重い感覚が僕を支配する。それを忘れたくても、頑固な油汚れのようにいつまでもべったりとまとわりついている。人間の醜く悍ましい所はまだまだある。ぽっかり空いた奥底の見えない2つの穴。まるでこの星のものではない者が設計したような、不均一な形態をした不気味なもの、耳。人間の耳は一人歩きして作られた僕でない僕を消費して楽しむ。人間はその優れた身体の機能をもって、僕が僕でいようとすることを少しずつ壊そうとするのだ。彼等の視線が、噂が、態度が、穏やかではあるが確実に僕を蝕んでゆく。僕を僕で居させてください。これ以上僕を殺さないで下さい。



朝がきた。今日も僕は外へ出なくてはならない。瞳孔を柔らかく刺すような太陽の光に不快感を覚え、顔を顰めた僕の顔を犬がぺろりと舐める。おはよう。犬はしっぽをぱたぱたと振りながら、近くにあった僕の腕に顎を乗せ上目遣いで僕を覗き込む。濡れたような丸い黒目に光が入り、キラキラと輝いている。自分以外の大事な他者。犬の頭を撫でると、気持ちよさそうに目を細めた。僕はまだ冴えてない頭とだるい身体を無理矢理起こし、身支度をして、外へ出る。いってきます。再び透明の拘束具が身にまとわりつく。今日も僕は穏やかな地獄で、化け物たちの恐怖に発狂してしまいそうになる喉を締め潰し、人間の形をした何かに異様なまでに媚へつらい、この絶望の蔓延した世界に無様にしがみついて生きていく。友達、先生、同僚、上司…。社会に属する全ての人間に僕は何年も何年も飼い慣らされてきた。求められるものには必ずワンと鳴いて応えてみせ、顔色を伺い時には思ってもないし言いたくもないような道化で他人という主人を楽しませる。僕自身や僕でない僕が誰かに消費されていれば、今にも潰れてしまいそうになる心を必死に抑え、馬鹿なふりをしておどけてみせる。



僕は、犬だ…。

得体の知れない何かに、常に恐れ慄きながらも、条件反射で愛想を振りまいてしまう、愚かな犬なのです。

どうか、僕を生かさせて下さい。

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