短編 静炎

おかしいのは世界か、自分か。

僕は幼少期から世界はおかしいものだと思っていた。

何故、母さんは僕の行動を把握したがるのだろう。何故、父さんは家に帰ってこないのだろう。何故、近所のおばさんや友人の友人のお母さんが僕のプライベートを知っているのだろう。何故、話したこともない他クラスの人や顔見知り程度の他学年の人が僕の秘密の話を知っているのだろう。

世界への疑問から疑念に変わったのは、何時だっただろうか。

僕自身のことなんて誰も興味すらないくせに、僕という人間の俗世的な経験にだけは寄って集って貪るような興味を持つのは何故だろう。僕の俗世的な経験や選択の一つを知っただけで、僕という人間の全てを知った気になって、時には一方的な賛否の評価を下しているのは何故だろう。

僕じゃない僕がいつの間にか勝手に形作られて一人歩きしてそれを僕である僕に投影されることを、この世界が当たり前としていることが、僕にはすごくグロテスクに感じられる。それを息を吐くかのごとく平然として行うこの世界の人間が、僕は怖くて怖くて仕方がない。一方的に人間に作られた僕でない僕に、僕が創った僕である僕が飲み込まれていつか僕の存在がなくなってしまいそうになるたびに、気が狂いそうになる。ここは僕の居場所のはずなのに、生まれてからずっとここでこうやって生きてきたのに、実態はないけど確かに存在する目に見えない敵を恐れ、発狂しそうになる自分を抑え殺しながら生きた心地のしない日々を過ごすことが、この世界の普通なのだろうか。それが普通なら、この世界は穏やかな地獄だ。

友人のKは「■■は考え過ぎだよ。人の目を気にするからだよ。」と言った。ほんやりとした薄気味の悪さと息苦しさが常に付き纏う日常というのは、僕の気にし過ぎだというのか。たしかに、こんなことKは思っていなそうであった。けれども、それはKが親も含めてこの世界での一定以上の地位があるからではないのか。そんな仮説を僕の中では断定してしまうほど、Kはここでの人間的価値が高い存在として周りから扱われている。物おじしない積極的な性格から男女問わず人気があり、文武両道のため教師ウケもよく、おまけに代々この土地の名士の家系であるらしい。そんなKと大して取り柄もない冴えない自分が友人であることは、無意識だけどたしかに存在した僕の劣等感に比例して、Kの優越感を肥大させていった。Kの言動の端々は、肉をわずかながらに時には深くえぐってゆく先端の鋭利な長針のようで、最初はほっとけば治るような小さな傷跡であったが、気づいたら無数の針が肉を貫き、引き裂き、血まみれになって取り返しがつかなくなっていた。便宜上、Kのことは友人と表記しているが、友人であるとは思っていない。もしかしたら、最初は友人だと僕も思っていのかもしれないけど、もうどうでもいい。そもそも、僕は基本的に誰にも心を開いていない。僕の精神までこの世界の住人になってしまったら、僕自身がなくなってしまうのではないかと思うからだ。この世界で消費されるのは世間に勝手に作り上げた僕のペルソナだけで十分だ。僕が僕であることを知っているのは僕だけでいい。僕を大切にできるのは、この世界に僕しかいないのだから。

そんな淡い異常をくどい平穏で雑に塗り固めたような世界で生きていくには、自分を殺すしか術はないことを物心ついた時から悟っていた。だから、誰かに話したいことも、ふとした些細な違和感や疑問も、悲しい感情も、全部僕の中で抹殺してしまえばいい。僕自身から生まれてきた感性や気持ちは、自分の所有物というよりどこか自分の分身のようである。だからこそ、僕自身であるともいえるものが世界から無造作に殺されるぐらいなら、僕は喜んで手間暇かけてなるべく苦しめるような自殺をしよう。僕自身に本気で向き合おうする人は、きっとこの世界で僕だけだから、僕には僕自身の痛みや苦しみを一番感じてもらわなくてはいけないのだ。でないと、生きているのか、もう僕には分からない。







昔の夢を見ていたようだ。寂れた天井が僕を現実に引き戻した。そうだ、僕は今、刑務所にいるのだ。僕は17歳の冬、覚醒剤に手を出した。経験したことのない身体の高揚感と、どこかそれを冷静に見ているような頭の冴える感覚に、僕は瞬く間に虜になった。今なら何でも出来る。そんな気がした。異常なまでに高まった本能と理性の狭間の中で、力強く脈打つ鼓動の音が聴こえた瞬間、僕は初めて生を知った。これほどまでにない五感が研ぎ澄まされた鮮明な感覚と、どこから湧いてきたのかはわからないみなぎる生命力に、僕は初めてこの世界で息が吸えた気がしたのと同時に、もうこれがないとこの世界で生きていけないことを確信した。

覚醒剤に慣れてきて以前ほど満足感が得られなくなっていた頃、ヘロインの使用を始めた。ヘロインの満足度は覚醒剤のソレ以上のもので、僕の心の拠り所となってくれた。

あぁ、僕は今こそ生きている!!僕の身体の中を駆け巡る血液の流動音、一定の律動を強く気高く刻む心臓の音、臓器と肉がぎっしり溜まった今にも破裂しそうな肉袋、眼球を蝕むほどに輝く太陽、鼻腔に抜ける澄んだ空気、乾涸びた口腔をうるおす生臭い水、全てが新鮮で鮮明に感じられた。透明の拘束具を解き放った今、潜在意識の中から目覚めた僕自身と僕を統合した。街行く肉塊が僕の横を通る度に僕を一瞥しては去っていく。美しき愚民どもよ、もっと僕を見ろ。もっと僕自身を受け入れろ。もっと、もっと・・・。

世界は思ったより悪くない。警察官に呼び止められたのは、そう思っていた矢先の出来事だった。


僕には死ぬ勇気もなければ大量殺人という世界への復讐を決行する度胸もない。僕は弱い人間だから、結局は自分自身を欺きながら、大嫌いな世界にすがりついて生きていくことしか道は残されていないのだ。

それすらも許されないというのなら、僕はどうやって生きていけばいいのだろうか。


「あいつは廃人になってしまった。」 

小学生の頃は良い奴だったのに。まさかそんなことをするなんて。中学生の頃は大人しくて目立たない人だったのにね。

世界は相変わらず僕を好き勝手カテゴライズしては僕という人間を形成していく。


でも一つ訂正させてほしい。

僕は廃人になった訳でも、何かが変わって訳でも、おかしくなってしまった訳でもないんだ。最初から何も変わっていないんだ。薬物で僕はおかしくなったんじゃない。最初からこうなんだ。

僕は最初からずっと僕なのに。


ああ、そうか。

「おかしいのは僕の方だったんだ。」




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