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アレクサンダー・ハミルトン:アメリカ合衆国建国と財政

 アレクサンダー・ハミルトンはアメリカの政治家(1755ー1804)。アメリカ合衆国独立の際に、ジェームズ・マディソンとともに、『ザ・フェデラリスト』を公刊した。憲法制定会議にも議員として参加した。それらの活動を通して、新生アメリカには強力な中央政府と連邦制が必要だと訴えた。他にも、財務長官をつとめ、国立銀行を設立するなどして、幅広く活躍した。これからみていくように、その最期は驚くべき仕方で人生の幕を閉じた。


ハミルトン(Alexander Hamilton)の生涯


 ハミルトンはイギリス領インドのニービス島で商人の家庭に生まれた。幼い頃に父がいなくなり、母と貧しい生活を送った。11歳のときに、ハミルトンは働き始めた。次第に能力を認められ、昇進していった。

 18歳のころに、ニューヨークのキングス・カレッジ(後のコロンビア大学)に入学した。この頃、イギリスの北米植民地は宗主国イギリスにたいして敵対的になっていった。ボストン虐殺事件やボストン茶会事件が起こっていった。
 すなわち、アメリカ独立革命の前夜だったのである。このような状況で、ハミルトンは学業を中断されることになった。

 アメリカ独立革命へ

 ハミルトンは北米植民地の独立運動を推進する立場として活躍していった。このような立場を養護するパンフレットを執筆した。
 1775年、アメリカ独立戦争がついに始まった。ハミルトンは砲兵隊大尉としてこれに加わり、頭角を現した。1777年には、総司令官ワシントンの副官に選ばれた。

アメリカ合衆国での政治家として

 1781年、独立戦争が事実上ほぼ終わった。そこで、ハミルトンは政治家としてのキャリアへ移った。まず、オールバニに移って法律を学び、弁護士として活動を始めた。
 1782年、大陸会議にニューヨーク州の代表として派遣された。新たに誕生しつつあるアメリカ合衆国において、強力な中央集権体制の必要性を説いた。

 1783年、ハミルトンはニューヨークで弁護士を始めた。同時に、ニューヨーク州議会の下院議員となった。
 1787年の合衆国憲法制定会議の開催に貢献した。だが、ニューヨーク州自体はハミルトンの望む連邦憲法案に必ずしも賛成でなかったので、ハミルトンはこの会議自体ではあまり活躍できなかった。

『ザ・フェデラリスト』:合衆国憲法をめぐって

 その後、合衆国憲法への反対の声が各地であがった。これにたいし、1787年から1788年にかけて、新たな憲法案の擁護のために、ハミルトンやジェームズ・マディソン、ジョン・ジェイらが協力して『ザ・フェデラリスト』 を執筆した。

 これはニューヨークの新聞で展開された85篇の論説である。1788年には、77篇が選ばれて、単行本として公刊された。これが世論に大きな影響を与えた。
 『ザ・フェデラリスト』はアメリカ合衆国全体を束ねる強大な連邦政府がなぜ合衆国にとって好ましいかを説明している。独立して間もないアメリカ合衆国は、実際には、各州の寄せ集めに過ぎなかった。各州は法律上はそれぞれ独立した国だった。

 独立後の13州は13の国であり、それらが緩やかな同盟をくんだのがアメリカ合衆国だった。厳密に言えば、アメリカ合衆国はそれ自体が一つの独立した国ではなく、13国の連合体だった。
 新たな合衆国憲法では、これら13州全体を統治する強力な連邦政府が設立されることになっていた。『ザ・フェデラリスト』では、そうすべき理由を詳しく説明している。たとえば、強力な連邦政府がなかったら、どうなってしまうのか。

 それぞれの州政府が強力な権限をもって、決定を下すことになる。そうすると、各州の利益がアメリカ合衆国全体の利益より優先されやすい。合衆国全体で意見をまとめるのが困難になる。よって、外交政策がまとまりにくく、混乱しやすい、などである。

合衆国憲法の批准

 1788年、大陸会議が開催された時、ハミルトンはニューヨーク州代表として再び派遣された。賛否の割れる中、ハミルトンは合衆国憲法の批准に貢献した。

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財務長官として

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