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アッシジの聖フランシスコ:清貧の鑑

 アッシジの聖フランチェスコはイタリアの修道士(1182ー1226)。当時危険だったエルサレム巡礼の安全を確保し、聖地巡礼を活発化させた。自身は清貧な品行で知られた。フランシスコ会というカトリックの修道会を創設し、中世キリスト教会に新風を吹き込んだ。最晩年には幻視の体験で聖痕を受けたという有名なエピソードがある。


フランシスコ(Francesco d'Assisi)の生涯


 フランシスコはイタリアのアッシジで裕福な商人の家に生まれた。フランスの言語や文学などを学びながら、父の商売を手伝った。

 13世紀初頭、フランシスコはアッシジの戦いに兵士として参加した。だが捕らえられ、1年間投獄された。その間に病にかかった。解放された後も、以前のような生活には戻らなかった。投獄と病気の経験をへて、それまでの生活に疑念をもつようになったためだ。

 さらに、癩病患者との出会いが大きな転換点になったといわれている。自分の育ってきた街で完全に見捨てられた人と出会ったことで、フランシスコには罪と悔恨の意識が芽生えた。

 神の被造物である癩病患者にたいしてキリストが愛と慈悲を示したように、フランシスコも同様にしようと思うようになった。そこで、慈善活動を行うようになった。神の教えを説く活動も始めた。彼の清貧的な生き方への賛同が集まるようになった。

 清貧の実践

 フランシスコは、ローマへの巡礼を決めた。当時、ヨーロッパでは巡礼はキリスト教文化として根付いており、多くの人々が巡礼にでかけていた。ローマはヨーロッパの一大巡礼地だった。

 フランシスコはローマに到着し、聖ペテロの墓所で所持金を全て捧げた。すぐには故郷に帰らず、喜捨に頼る生活を続けた。フランシスコは賛同者とともに新たなグループを結成した。彼らとともに、キリストや使徒の生き方を模倣し、清貧を実践した。

 使徒が言うように食べ物と衣服さえあれば十分であり、それ以上はキリストの生き方を実践する者には必要ないと考えた。彼らは施療院などで働いたが、金銭の受取を禁止するようになった。

 フランシスコ会の結成へ


 彼らは貧しい者や弱い者、癩病患者など、社会の周辺に追いやられている者とともにあり、彼らと兄弟になるよう欲した。彼らとともに「小さき者」であろうとした。このような仕方でキリスト的な生を実践しようと試みた。

 1209年、このフランシスコ会は教皇インノケンティウス3世によって公認された。これが当時の西欧のキリスト教に新たな風を吹き込む新興勢力となっていく。

 フランシスコ会はアッシジのサンタ・マリア・デリ・アンジェリ教会を本拠地として活動を本格的に開始した。各地での宣教活動を拡大していった。たとえば、貴族などの有力者には自身の富をよりキリスト教に適合した仕方で用いるよう説得した。

遍歴するタイプの修道会

 各地を遍歴して説教すること自体は修道院の歴史の中では比較的新しいことだった。それまでのベネディクト会やシトー会、クリュニー修道院などは定住を基本として活動した。外部との接触を極力控えた。そのため、修道士が外の世界に積極的に出て民衆に説教をするということはしなかった。

 だが、11世紀のグレゴリウス改革が転機となった。社会全体をキリスト教の色で染め上げるという目標が示された。そのため、遍歴と説教を行う修道会が徐々に現れ始めた。フランシスコ会はその代表格の一つとして成長していく。

 
 1212年には、アッシジの貴族出身の女性クララがフランシスコの実践に賛同した。彼はクララなどの女性たちのためにクララ会を設立した。同年、フランシスコは弟子たちとともに、エルサレムでのイスラム教徒にたいする宣教活動を思い立った。

 この時期はスペインでいわゆるレコンキスタが一定程度進展していた頃であり、それに触発されたためである。だが、船の難破や病気により、実現しなかった。

 1215年には、ドミニコ会を創設した聖ドミニコとローマで面会した。

 説教と宣教の拡大:エルサレムの巡礼


 フランシスコ会は徐々に勢力を拡大し、イタリア以外にもフランスやドイツ、スペインや聖地への宣教を試み始めた。遠方での宣教活動や修道士の増大とともに、フランシスコ会の組織形態についてのルールがつくられるようになった。たとえば、宣教地の活動範囲を分けるために、その基本的単位として管区が導入されるようになった。

 1219年、フランシスコはエジプトと聖地への宣教活動に向かった。フランシスコはキリスト教を弘めることにも大きな関心を抱いたためだ。また、聖地エルサレムの巡礼が彼の重大な関心事になっていたためでもある。同時期に、フランシスコ会はスペイン南部やチュニジアでも宣教活動を試みた。

 エルサレムは11世紀末の第一次十字軍でヨーロッパ勢力の支配下に置かれた。だが、1187年、アイユープ朝のサラディンがこれを奪い返した。その結果、キリスト教徒のエルサレム巡礼が以前のようには自由で安全にできなくなった。

 そこで、フランシスコはエジプトへ向かった。エジプトのスルタンを改宗させようと試みたが、失敗した。それでも、キリスト教徒がエジプト経由でエルサレム巡礼を行うことを容認してもらった。

 かくして、次のエルサレム巡礼路が人気となる。イタリアから船で地中海を渡ってエジプトに行き、そこからロバなどでエルサレムに到達するルートだ。これをフランシスコ会が先導することになる。いわば、巡礼ツアーのガイドをつとめることになった。

 だが、フランシスコがイタリアを離れていた頃に、フランシスコ会では内部対立が起こっていた。フランシスコ会を旧来の修道会のあり方に近づけようとする動きが見られたのだ。また、外部からの批判の声も高まりつつあった。そのため、フランシスコはイタリアに戻った。

 晩年:戒律の整備


 フランシスコは重い病気にかかり、修道会のトップを辞任した。あるいは、上述の内部対立に幻滅したためだともいわれる。その後は、1223年、修道会の戒律を編纂し、公布した。

 当時のルールでは、正式な修道会は公式の戒律をもっていなければならなかった。さもなければ、修道会として認められないか、少なくともその正統性を疑われた。だが、フランシスコ会は1209年に非公式の戒律を教皇に認めてもらっていただけだった。

 また、それ以降、フランシスコ会の組織拡大に伴い、実際に様々なルールが増えていた。そのため、フランシスコは正式な戒律の編纂を行った。これが教皇庁に正式に認められた。

 1224年には、フランシスコはアルベルナ山で修行した。その際に、フランシスコは幻視を体験し、キリストから手と足と脇腹に聖痕を受けたという逸話がある。この場面は絵画などの画題としてポピュラーになる。以下もその一つ。1226年、フランシスコは没した。

聖フランシスコの肖像画

左上のIHS(キリストのこと)をフランシスコが幻視している場面。フランシスコは没してすぐに聖人に認定されたので、頭の上に輪が浮かんでいる。左下の骸骨は、現世のむなしさを表現している。

 ちなみに、フランシスコはすべての生き物をみな兄弟とみなし、小鳥や魚などにも説教を試みたという逸話もある。

おすすめ参考文献

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