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「概説 静岡県史」第126回:「隣保組織の整備と革新派の再結集」

 今回の記事を書いていて改めて思ったのですが、推進員制度のところで、「戦争は無理なしでは勝てぬ、戦争は不可能を可能にすることであり、同じように肥料がないから増産できないということは許されない、という精神教育」というのがありますが、「戦争は不可能を可能にすること」って、上に立つものにとっては非常に都合の良いですが、何て無責任な言葉なのでしょう。そんなこと言えば、なんでもまかりとおってしまいます。改めて戦争って人をおかしくするってことが良くわかる話で、だからこそ戦争はダメなんだと実感できる話です。
 それでは「概説 静岡県史」第126回のテキストを掲載します。

第126回:「隣保組織の整備と革新派の再結集」


 今回は、「隣保組織の整備と革新派の再結集」というテーマでお話します。
 精動運動の中で権限を強めてきた内務省は、実戦網整備に力を注ぎ、静岡県の場合では1940年(昭和15年)の初めごろには町内会・部落会常会は月に一度の定例化に至らぬまでも、ほぼ9割方の整備水準まで近づいていました。大政翼賛運動開始にあたって内務省は、40年9月11日に「部落会町内会・隣保組・市町村常会整備要綱」を発表し、部落会・町内会のさらなる徹底した整備を図りました。部落会・町内会は、新体制下の実践組織といっても、大政翼賛会の地方支部の下部組織ではありません。内務省の狙いは、町内会・部落会の把握による国民組織への自己の主導権確保であり、国民組織に関する内務省の構想は、精動運動の延長上にありました。
 内務書の指示に沿って、県は10月8日に整備要綱を訓令し、留意事項を通知しました。①部落会・町内会組織の設置強制、全戸強制加盟、部落会・町内会は市町村の補助的下部組織、長は市町村長の選任、常会の設置強制(本的に全戸集会)、他の類似団体の統合、②町内会・部落会の隣保実行組織としての「隣保班」(隣組)の設置強制および常会設置、隣保班代表者の設置、③市町村長を中心とし部落会長、町内会長、各種団体代表からなる市町村常会の設置などです。従来の振興委員会の下での整備に比べると、一律の条件に沿った強制設置、強制加盟原則が明確となり、組織的には市町村長の指揮を受ける市町村行政の下部組織であることが明記されました。類似団体の統合では、農事実行組合は部落会と一体となり、家庭防空組合は隣組に統合されました。
 この整備要綱により、市町村では全戸加入および計画区域に沿った町内会・部落会の整備が進められ、静岡市や浜松市の伝統的な総代会は解散を余儀なくされました。総代会は市政への協力機関ですが、市から独立した独自の組織で、市政・市会に対して独自の建言を行う場合もありました。浜松市の総代会は12月24日に解散し、静岡市の場合は町内が二分しまとまらない地域もあり整備が遅れたため、41年3月25日に解消式が行われ、事務が町内会へ移行しました。市域の場合、町内会の上に小学校区ごとの連合町内会が組織され、連合町内会長は団体代表とともに市常会のメンバーを構成しました。町内会長は公的役職になり、社会的地位を高め、市政に対する発言権を強めました。
 各町内会・部落会では精神鍛錬、軍事協力、経済、更生、青年、婦人等の専門部が置かれ、隣組には正副組長のほか、納税、配給の係が置かれました。この二つの係は、隣保組織の機能で何が最も重要だったかを示しています。日常生活全体が隣保制度に覆われ、特に物資配給機構として活用されたことで、都市の場合も町内会-隣組を離れて生活することは不可能になりました。そのため町内会・部落会役員は、従来よりもはるかに強い制裁などの権限を持ち、市民の生活を大きく左右しました。常会記録を見ると、常会運営目標には不忠、不孝、争闘、怠惰の排撃、国策実行とそのための建設的意見が求められ、このような常会の精神を浸透させるべく町内会・部落会指導者講習会が頻繁に開催されました。内務省-県行政は、大政翼賛会地方組織の下部組織ではないけれども戦時下の国策実践には不可欠な、町内会・部落会-隣組という国民支配網を完成し、この掌握を通じて翼賛体制に対する強い発言権を確保したのです。
 県、市町村ともに少数理事体制で出発した翼賛会は、運動が実践段階に入ると組織的欠陥が露呈しました。国策の徹底については隣保組織が活用されても、運動の実践部隊、大衆的な指導部隊がありませんでした。運動が行政主導で精動化したために、下から盛り上がりに欠くという精動運動と同じ問題が再現されたのです。そこで考え出されたのが推進員制度です。41年3月から選定が始まった推進員は、20歳代後半から40歳代前半までの青壮年層の起用で、静岡市で60人、県全体で3,000人が選定されました。彼らに対して早速錬成が実施され、時局意識普及徹底の先兵となることが求められました。この制度はすぐに拡充され、8月には各町内会・部落会に数人の割合となる8,000人に増員されました。推進員は町内会長の推薦、上申に基づき、市町村翼賛会支部で選定されました。
 推進員は部隊制が採られ、大隊-中隊-小隊-分隊という班編成が敷かれました。軍隊に模した組織編成は、他の国民組織でも41年夏ごろから採用されていますが、上級指導者の命令に絶対服従させるための手段でした。「我等は皇国に生き皇国に死す」「我等は必勝の信念を堅持し新体制の確立に邁進す」「我等は正しく自らを律し進んで統制に服す」という「推進の書」が推進員の基本精神であり、戦争は無理なしでは勝てぬ、戦争は不可能を可能にすることであり、同じように肥料がないから増産できないということは許されない、という精神教育が行われました。県内の食糧事情が深刻化し、食糧増産の実践指導が強く求められる状況の中で、翼賛会支部内での推進員の発言力が強まっていきました。
 このような翼賛会下部組織の変化と太平洋戦争開戦前の緊迫した情勢を背景に、県会内の革新派の再結集が始まります。議会再編の動きは、衆議院における全員所属の議員倶楽部結成が失敗し、41年9月以降、院内交渉団体である翼賛議員同盟、同交会、興亜議員同盟、議員倶楽部が結成された動きと連動します。県選出議員は興亜議員連盟に倉元要一、深沢豊太郎、議員倶楽部に太田正孝が所属し、残りは翼賛議員連盟に参加しました。県会の場合、院内会派復活とまではいきませんでしたが、9月には、森口、加藤、小松勇次らが主唱して革新議員連盟を結成する動きがあり、11月には会合が開かれました。開戦を期待する森口の演説、小松、森口の県当局は無責任であるとする追及など、革新派の声が議会をリードしました。また、彼らが官僚と対立する中で、官僚独善批判を一層強めた一部の議会人たちが、革新派をバックアップしました。前県会議長三上陽三は12月2日付けの『静岡新聞』で「県会議員の一人として」と題して、「国家権力を背景とする官僚の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)は自然の現象としてその勢ひまさに懸河の有様である。わが世の春を楽しむもの官僚にあらずして何ぞやといひたい位だ。従ってその独善は漸く世の非難の的となり、今やこの弊風漸く地方に及び、見様見真似で地方下僚吏属の横柄。不親切が問題となりつゝあるのである。これらを矯正せずんば官民一体、一億一心、覚束ないといひたい位である」と官僚を激しく批判しました。革新派の動きは、この後より積極化し、三上は大政翼賛会を嫌って翼賛運動から距離を置き始めました。
 次回は、「翼賛壮年団の結成と翼賛選挙」というテーマでお話しようと思います。

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