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「概説 静岡県史」第153回:「戦場の静岡県民」

 オリンピックが開催されているパリと日本との時差は12時間ですので、ちょうど朝のニュースの時間に試合が行われているのですが、朝、民放をはじめ、NHKまで総合、Eテレともオリンピックってのはどうなんでしょう。どの局でも同じことをやっているのって、テレビ局が複数ある意義がないわけです。まぁ、日本って、そういう国なんですけどね。
 オリンピック以外が話題になっているかと思えば、「8月2日の国内株価は大幅な下落は、ブラックマンデー(1987年10月)以来の史上2番目の大きさ」だと騒いでいるニュースで、これもまぁ日本らしいと言えば日本らしいですが、4万円に近づいた今の2000円の下落なんて、割合から言えばどうってことないんですけど、「史上2番目」に惑わされているのって、単に株のことが分かっていないだけだと思うんですけどね。
 それでは「概説 静岡県史」第153回のテキストを掲載します。

第153回:「戦場の静岡県民」

 今回は、「戦場の静岡県民」というテーマでお話します。
 静岡県からどのくらいの県民が兵士として戦いに向かったのか、その正確な数字は分かりません。静岡県民生部の調べによると、敗戦時には陸軍約18万6000人、海軍約4万7000人、計23万3000人が兵士であったとされています。
 この他、防衛庁所蔵の『支那事変大東亜戦争間動員概史』所収の「兵役年齢男子の聯隊区別人員表」では、兵籍数を「本表は民間に於ける人口調査に基き推定計算せるもの」としていますが、同表から静岡連隊区を、1939年(昭和14年)から45年までを平均すると、約33万7859人となります。この中から兵士としてどれくらいが徴集されたかを考えるためには、同資料の「聯隊区別徴集人員表」の日中戦争以後の計8万8320人という、おそらく現役兵数と思われる数字に、「聯隊区別召集人員表」の合計14万6880人という、おそらく召集兵数を加えた23万5200人と推計することができます。静岡県民生部調べの数字との誤差は、静岡県は39年まで県西部が豊橋連隊区、中・東部が静岡連隊区であったため、連隊区の整理に伴い豊橋連隊区で扱った人数や、除隊し、また召集された人数、あるいは志願兵数などの扱いが不明であることなどが、その理由であると思われます。
 戦死者の数も定かではありません。静岡県民生部の『援護の手引き』(1973年)によると、十五年戦争で陸軍6万3693人、海軍1万2098人、計7万5791人が戦死しているとされます。動員数から考えると、3人ないし4人に1人が戦死したことになります。別に1972年(昭和47年)の静岡県遺族会の調査によると、5万9048人という数字もあります。
 次に戦死地域別を見ると、静岡県に関連した部隊が転戦した地域の数値が高く、16,571人と最も多い中国本土は、静岡歩兵第34連隊、豊橋歩兵第18連隊、独立歩兵第13連隊などの部隊が転戦しました。特に日中戦争初期の上海戦での死者数が多いと思われます。次に多い14,555人のフィリピンは、独立歩兵第13連隊が海没した後、レイテ戦で全滅した地域です。9,260人の中部太平洋は、豊橋第18連隊や歩兵第108連隊が海没し全滅したグアム・サイパン島が所在し、7,302人の東部ニューギニア・ソロモンは、歩兵第230連隊がほぼ全滅したガダルカナル島が含まれます。
 最も戦死者の多い中国本土では、1937年(昭和12年)に日中戦争が始まると、8月に静岡第34連隊(田上部隊)、豊橋第18連隊(石井部隊)の両部隊も出動しました。豊橋の広小路も、静岡の七間町も歓喜の声で埋まり、兵士たちは「正月までには帰る」「相手は中国兵だ、心配するな」と家族に告げましたが、祖国を侵略された中国兵の抗戦意識など認識外でした。しかし上海に上陸して見ると、先陣を切った名古屋・岐阜両連隊の将兵の死体が散乱していました。中国軍は網の目のように巡っているクリーク(用排水路)を利用して築城し、頑強に抵抗しました。近接戦用の装備は中国軍の方が優れており、チェコ製の機関銃が次々と兵士を倒しました。演習で繰り返した、中隊が横になって進むような戦闘はどこにもありませんでした。人員が15%程度の30人ほどに減り、全将校が戦死傷し、下士官が指揮を執っている中隊も少なくありませんでした。手足の負傷で後退するのはむしろ幸運で、あまりに多い負傷者に医療品はおろか水も極度に不足し、軍医は最も清潔な水である健康者の小便で手を洗いました。食糧は前線に届かず、兵士の体重は半減しました。危険と知りながら死体の浮かぶクリークの水を飲むため、チフス、赤痢が流行し、病死数が戦死数と同じくらいでした。最前線の中隊は中隊長以下6回転もしました。上海戦は、後の太平洋戦争で起こった悲劇の先駆けでした。
 毒ガスの使用も確認できます。防衛庁所蔵の『第三師団関係資料』には、38年5月14日に中止命令が徹底せず、羅家集で師団ガス将校の指導の下で使用したことが見えます。『武漢攻略戦間に於ける化学戦実施報告』の「第三師団特種発煙筒使用概況一覧」によると、同年10月に豊橋第18連隊が大隊規模で6回、静岡第34連隊第一大隊が1回使用したとの記載があります。軍の補給を考慮しない戦域の拡大は、翌年の国民党軍による冬季攻勢時に孤立した防御点を守るために、兵士に判断によるガス使用という事態も引き起こしました。
 歩兵第230連隊(東海林部隊)は、1942年(昭和17年)10月にガダルカナル島へ投入されました。飛行場の奪還を任務としましたが、米軍の弾幕を張った防御のために失敗しました。しかし本当の悲劇はその後でした。ジャングルは食糧に乏しく、わずかな食糧しか携行しなかった目算の甘さは兵士を飢えに追い込みました。ある歩兵砲中隊の生存者は167人中わずか14人、生存率8%で、ほとんどが栄養失調による衰弱死でした。
 しかし第230連隊の悲劇はまだ序の口でした。90%の犠牲を出したとはいえ、駆逐艦による収容が行われ、日誌も残ったからです。制空権を完全に喪失した後は、撤収を行うことさえ不可能でした。第118連隊(伊藤部隊)は、将校を含め県内の予備役を総動員して編成したため、編成が整ったのは出発のわずか1か月前でした。この部隊の編成後、30歳以上の生産の中核となる男子が兵士となったため、物資の生産が思うようにいかなくなったと言われています。この連隊は第43師団の第2次輸送でサイパンに向かいました。7隻の輸送船は次々に雷撃を受け、サイパンにたどり着いたのは1隻のみでした。海に投げ出された兵士約3,300人中、約1,000人を収容したのみで、護衛艦はサイパンに向かいました。収容された兵士は小銃が3人に1挺、重火器は皆無で戦闘に参加し、最後の突撃まで生存した兵士は約100人でした。この部隊の最後の詳細はつかめません。中国大陸を転戦した豊橋第18連隊は列車で朝鮮半島南部まで輸送され、満期除隊のうわさが飛ぶ中、サイパン・グアム戦に投入されました。第18連隊も、フィリピンに投入された独立歩兵第13連隊も、乗船が魚雷を受け、装備のほとんどを失い、兵員は半減し、戦闘に参加して全滅しました。
 十五年戦争後期に成年男子は兵士となるのが前提となり、兵士になれば死ぬか負傷する確率が極めて高く、またその死は日中戦争当初から戦死と並んで病死が多く、太平洋戦争になると病死が大部分へと変化しました。さらに戦場にたどり着く以前に海没する可能も多くなりました。県民にとり兵士になるということは、飢餓と病、海没が待ち構えていることを意味していました。
 次回は、「戦時下の社会紛争」というテーマでお話しようと思います。

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