「概説 静岡県史」第146回:「社会運動の衰退」
今朝は雨でしたが、もう6月も半ばになるのに、東海地方は梅雨入りしていません。雨が降り続くのは実際嫌なのですが、しかし来るものが来ないと、何故か落ち着かない感じがします。おまけに連日の暑さのせいで、額に汗がにじんで、早くもあせもで痛痒く、夏本番になったら、どうなってしまうのか、今から不安です。
それでは「概説 静岡県史」第146回のテキストを掲載します。
第146回:「社会運動の衰退」
今回は、「社会運動の衰退」というテーマでお話します。
1936年(昭和11年)から37年にかけて、軍需インフレーションの急激な進展により激しい物価の高騰が起こったため、一時影を潜めていた労働争議が再燃するようになりました。37年に入ると駿豆鉄道、静岡電気鉄道自動車部、東京人絹吉原工場、東京毛織沼津工場などの大規模工場でストライキが続発しています。
静岡県内の左翼系組合は激しい弾圧を受けて壊滅状態に陥っていましたが、沼津を拠点としていた総同盟(36年1月に全国労働組合同盟との合同で全日本労働総同盟となります)系の組合は、争議の指導に積極的に乗り出しました。中でも全日本労働総同盟(以下、全総)の指導の下で闘われた伊豆持越金山争議は、この時期最大です。
日中戦争の開始とともに、労働組合運動は大きな転回を遂げることになります。37年10月に行われた全総の全国大会では「出征将士並びに遺家族慰問義金募集運動、愛国貯金運動、同盟罷業撲滅・産業平和運動」の銃後三大運動の展開が決定され、戦争遂行という国策への積極的な協力が方針として打ち出されます。全総傘下の関東紡織労働組合沼津支部(以下、沼津支部)は、開戦後直ちに国防献金を行ったのをはじめ、本部の募金運動への協力、出征した組合員家族への援護などを行っています。翌38年2月に行われた沼津支部大会の冒頭には、日本軍兵士への「無限の感謝」が捧げられ、「弾雨下の戦線にある皇軍将士の如き緊張を以って、その日常生活と日常の業務に於て尽忠奉公の誠を致す可き決意を更に固くする次第であります」という銃後の決意が語られました。
労使関係にも大きな変化が見られました。沼津支部は「労資産業協力の徹底こそ国家産業の平和と発展への当然の段階」と国家産業発展のための労資協力を声高に叫ぶようになります。大東紡織会社では、会社重役と従業員とを一丸とした出動軍人後援会が組織され、沼津支部は労資の一体化を図ることを目的としたこの組織への参加を自ら決定しました。
このような動きは、本来労働者階級の利益を第一に置くはずの労働組合が、その存在意義を自ら低下させたことを示しています。38年7月、総同盟系労働運動の指導本部の役割を果たしてきた、沼津支部所有の岳南労働会館が製紙工場に売却されたことは労働組合運動の終わりを象徴する出来事と言えましょう。39年2月11日、沼津支部は第13回大会を開きましたが、これが支部最後の大会となりました。産業報国運動が広がりゆくなかで、沼津支部をはじめ総同盟(39年11月に全総から再び改称)系組合は、産業報国会への一元化を進めるために、39年末には次々と自ら解散していきました。
農民運動も労働組合運動と同様な動きを示します。県内最大の農民組合であった全国農民運動静岡県連合会(以下、全農県連)は、最盛期には県内に約1万人の農民を影響下に置いていました。しかし、1930年代半ばころから、社会大衆党(以下、社大党)に入党して議会進出を果たした県連幹部が組合の主導権を握る一方、激しい弾圧を背景に左派を排除する動きが強まると、県連内の対立が表面化するようになりました。
1937年(昭和12年)1月、県連書記局員の3人が社大党衆議院議員山崎釼二の「独占的支配」を批判し、県連の刷新を叫び書記局事務を停止するという行動を起こしました。書記局員の植松七之助らはまもなく全農県連を離れると同時に、既に県連を脱退していた元幹部らと提携し、別個の全県的な新農民組合を創立する準備を始めました。同年3月3日付け「静岡民友新聞」には、創立準備会は3月に沼津市の植松方で開かれ、名称は静岡県農民組合とすること、自作農を含めた幅広い農民層を集めて組織すること等が決議され、準備委員には元県連幹部の大井上康(おおいのうえ やすし、ブドウ「巨峰」の生みの親。田方郡下大見村、現在伊豆市に「大井上理農学研究所」を設立、巨峰はここで誕生しました。)、青島今治、賤機(しずはた)春らが名を連ねました。この新農民組合は県内各地の組合を傘下に入れることが予想されていましたが、12月に起こった人民戦線事件で植松や賤機ら中心人物が検挙されてしまったため、日の目を見ることはありませんでした。彼らが検挙されたのは、4~5月の市町村会議員選挙で、各地に候補者を擁立し、選挙運動を行ったのですが、その際、反ファッショ統一戦線方針を抱く日本無産党に入党し、沼津市、熱海市、静岡市などで同党支部の結成を進めたことが理由でした。
山崎釼二、福島義一ら全農県連幹部は、38年2月杉山元治郎、三宅正一らが全農から分裂して大日本農民組合(以下、大日農)を結成すると、8月15日、全農県連の大日農県連への組織替えを決定しました。大日農は人民戦線事件後、反共・反人民戦線の立場を明確にした社大党のもとで、全農と日本農民組合総同盟とが統一して生まれた団体で、第一回全国大会の宣言では、「進んで時局相当の任務につき、以て東亜和平の大道に馳せ参ぜんことを誓ふ」と国策協力をうたっていました。県幹部の山崎は大日農本部理事に就任しました。大日農は満州農業移民にも積極的で、県連の福島も参加した独自の小作農視察団を派遣しています。その後、近衛新体制運動への参加のため社大党が解党すると、大日農も40年8月に解散を決定、県連もそれに倣って解散を発表しました。各地の農民組合も、警察署からの指導により次々に解散したことで、県内の農民組合運動は終止符を打たれることになりました。
この時点で農民運動団体の全国組織として39年11月に結成された農地制度改革同盟が存続し、静岡県からも山崎、福島らが参加していましたが、実質的な地域活動の展開はほとんど見られないまま、42年3月に結社不許可処分を受けて解散に至りました。
次回は、「産業報国運動の展開」というテーマでお話しようと思います。
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