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「概説 静岡県史」第135回:「中小商工業と金融機関の再編成」

 
 それでは「概説 静岡県史」第135回のテキストを掲載します。

第135回:「中小商工業と金融機関の再編成」
 今回は、「中小商工業と金融機関の再編成」というテーマでお話します。
 政府は、昭和恐慌の下で、輸出拡大を図るためにも中小工業の組織化と重要輸出品工業組合への結集を図りつつ、金融的に一定の支援策を講じました。1936年(昭和11年)の商工中央金庫の発足も、第一次世界大戦後に始まる中小商工業支援策として企画された施策の1つです。全般的に戦時経済統制に入るまでの産業政策は、貿易振興のための中小工業育成を1つの柱としており、その代表格が「工業組合法」、「重要輸出品工業組合法」です。これに対し戦時経済統制は、38年3月1日の綿製衣類の切符制による割り当てから始まります。これは原綿が輸入によるものであり、外貨を軍需物資調達のために集中的に割り当てる必要から実施されました。軍需優先の生産を図ろうとすると、消費財生産を後回しにしなければならなかったほど、日本の外貨事情は厳しい状況に置かれていたのです。特に不要不急品として指定される消費財に関しては制限され、圧迫が加えられました。繊維産業に対する資金融通の事実上の停止が、この部門の縮小と転廃業を導きました。
 昭和恐慌下で中小工業の保全を図るために、32年「中小商工業者産業資金融通に関する件依命通牒」が通達されています。これは大蔵省預金部から工業組合、信用組合、中小商工業者等に、日本勧業銀行を通じて35万円の規模で融資を行うものです。同年の「中小商工業者等産業資金金融要綱」は、工業組合、中小商工業者等に対し、日本興業銀行を通じて15万円を融通するものです。 
 恐慌に先立って進行していた日本経済の不振は、海外向けの輸出、特に東南アジア諸国・地域に対しての輸出において、同業者間の価格引き下げ競争が行われており、商工省は当時の輸出産業の主力が中小工業製品であるという事情から、この分野を保全することなしには経済振興政策は実現できないと考えていたことから、中小企業金融が図られていました。このような認識は、25年の「輸出組合法」、「重要輸出品工業組合法」の時点で既に出ており、さらにそれを前提として31年4月に公布された「重要産業統制法」にまで続く商工行政全般に貫かれていました。「輸出組合法」、「重要輸出品工業組合法」の構想も零細輸出工業の防衛に狙いがありました。昭和恐慌期の商工金融政策も、そのような流れに沿って展開されていき、中小商工業者資金融通策もその延長線上にあります。
 38年5月12日の「支那事変に応召せる中小商工業者の金融融通に関する件通牒」は、日中戦争の本格化の下で、戦争への応召と遺家族の出現とにより経営困難な業者に対する支援を図るというもので、戦争遂行のために中小工業経営を困難に陥らせることは、社会問題としての意味をもっており、特に遺家族の生業安定対策として資金融通を必要とする状況にあることを示しています。
 1937年(昭和12年)10月26日の「臨時資金調整法実施に関する件通報」により、「臨時資金調整法」の実施による中小経営に対する金融統制の方向付けが始まります。また、38年11月8日の「中小商工業者転業資金融通に関する件通牒」は、転業資金の融通に関するもので、この場合の転業先は「軍需産業、輸出産業、代用品産業」などです。さらに「昭和十五年度転業者開拓農民募集に関する件通牒」で、転業の1つとして「満州開拓民」が用意されていることを示し、42年8月7日の「小売業整備に関する件通牒」で、この転業方針が労務動員計画の一環として提起されていることを示しています。
 小売業は生業を捨てさせて「整備」の対象とされ、「整備」にあたっては企業合同等の方針がとられ、食料品など日用生活品に関しては、切符制、米穀配給通帳制が導入され、転業者への職業あっせんなどの方策が提示されます。このように業者の転廃業を進めると、配給体制に支障が生じるわけですが、「残存店舗の配給率の向上を期すため、商業報国運動に依り、経済道義の昂揚を図る」という精神主義に傾斜せざるを得ませんでした。
 このような動向を産業別就業者数の推移で確認すると、1930年に399,861人だった農業が40年には395,595人とやや減少していますが、その中の大半は女子の労働化、つまり男子の戦時動員に伴い女子の就労が進んだことから、女子比率が高まっています。1930年に131,859人だった製造業は、40年に192,218人と増加していますが、これも女子の増加が著しいことが裏書きされます。1930年に100,096人の卸売小売業は40年に106,080人ですが、この数値は大半が小売業の就業者と考えられますが、ここでも女子比率が増大しており、女子が小売商店経営を守っていたことを示しています。
 28年3月1日施行の「銀行法」の導入を契機に、銀行経営者が一般産業の経営者であることを禁止したり、最低資本金額を人口によって定めたり、大蔵省による査察権限を高めるといった統制色の濃厚な銀行法制を採用しました。この法律により33年を時限として銀行界の整理が進んだのですが、その後これを受けて「一県一行」政策として銀行整理が実施されていきます。これは一面で地方金融界の不安定性の克服を図りつつ、他面で地方金融機関を金融統制=戦時資金調整策に組み込むことを意味します。静岡県では、43年3月に静岡三十五銀行と遠州銀行との合併により静岡銀行が成立しましたが、駿河銀行や駿州銀行は合併には応じませんでした。
 駿河銀行は、県東部から神奈川方面にかけて一定の金融的基盤を持ち、駿州銀行は、大蔵当局の強い誘導のもと、44年末に静岡銀行に統合する計画がありましたが、同行は経営に自信を持っていたため、消極的に対応していたと言われています。
 45年初めに日本銀行静岡支店長の仲介により静岡銀行との具体的交渉に入り、合併に難色を示した駿州銀行は、営業譲渡契約の締結の方法により、5月29日に契約書を取り交わしました。6月30日、臨時株主総会においてこれを了承し、同行の解散を求めましたが、7月7日の清水空襲で本店を含む3店舗を焼失したことで、7月31日付けでの静岡銀行への営業譲渡は困難となり、改めて同年10月1日を期日としました。しかし、敗戦により、杉山亮太郎常務の合併見合わせ案が主要株主の鈴与の鈴木与平社長に提案されると、戦時下に倉庫業合併政策に強く反対し独立を守った実績がある鈴与商店はその趣旨に賛同し、10月25日、大蔵省に対して静岡銀行との営業譲渡契約解除を通知し、独立経営を維持しました。『静岡銀行史』によると、戦災による資産状況の変化、GHQの管理方式の変革も予想されることから合併が棚上げになったとされています。
 金融機関の全国的な整理と統制の動向は28年施行の「銀行法」を受けて33年までに資本金規模による無資格銀行の整理と統合が行われ、42年の「金融統制団体令」に基づく金融統制会が、その下部組織として業態別統制会、統制組合、地方金融協議会の発足により銀行合同に強い権限を持つに至りました。また43年には普通銀行の貯蓄銀行兼営が再度認められ、42年の「金融事業整理令」による地方銀行の合併が促進されました。43年の駿河銀行の駿河貯蓄銀行合併もこの趣旨に基づいています。
 44年12月には、地方銀行統制会により「市街地信用組合の事業譲渡に関する件」が示され、駿河銀行は45年1月に沼津信用組合の譲渡を受け、清水市信用組合は3月に譲渡契約を締結しています。いずれも「戦力増強」の観点から「生産力増強の原動力たる金融部門の整備統制」が求められ、「貯蓄の増強と戦力資金の調達(国債の消化)」を目標としたものです。
 静岡県の民営鉄道は、藤相鉄道が1925年(大正14年)に岡部-大手間を開通させたころの経営成績は好調でしたが、26年相良-地頭方間を開通後、不況の影響を受けた上、30年代後半には定期バスの運行と競合し、36年には岡部線を廃止するなど経営縮小に追い込まれました。中泉-二俣間の光明鉄道は33年に破産、堀之内(現在菊川市)-池新田(旧浜岡町、現在御前崎市)間の堀之内鉄道は35年に廃線、浜松電気鉄道の中ノ町線は37年に廃線となりました。そして43年の民営鉄道線統合政策により、静岡電気鉄道が藤相鉄道、静岡乗合自動車会社など11社を合併して静岡鉄道となりました。同じく43年に、遠州電気鉄道が浜松自動車、遠州秋葉自動車、遠州乗合自動車、掛塚自動車、気賀自動車を合併して遠州鉄道を発足させました。
 東海道線は、1925年(大正14年)までに国府津駅 - 熱海駅間が「熱海線」として開通し、28年(昭和3年)までに東京駅 - 熱海駅間の電化が完成しましたが、熱海駅 - 沼津駅間は丹那トンネルの建設が難工事となったため、開通が遅れました。また、地域住民の長年の願望だった二俣線、現在天竜浜名湖鉄道は40年に開通しています。
 戦時下の新鉄道敷設構想として注目されるのは、「広軌新幹線計画」、通称「弾丸列車」の取り組みです。これは東京-下関間を9時間で結び、さらに下関から海底トンネルで朝鮮半島と結び、半島を縦断する朝鮮鉄道を経て、満洲国の首都新京、現在長春や中華民国の北京までの直通列車を走らせるという壮大な構想でした。38年に従来の国有鉄道の狭軌1067ミリメートルとは異なり、国際標準規格である1435ミリメートルの広軌鉄道として構想され、それに基づいたトンネル建設が40年に予算化が始まりましたが、戦局が悪化したため、43年度をもって工事は中断されました。しかし、日本坂トンネルの工事は継続され、44年に完成、現在東海道新幹線で活用されています。
 次回は、「戦時農業統制」というテーマでお話しようと思います。 

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