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「概説 静岡県史」第138回:「戦時林業統制と遠洋漁業の解体」

 静岡県知事の立候補者が大村氏と鈴木氏に固まり、各陣営もそれぞれどちらに付くかはっきりしてきました。いちおう自民の大村氏と連合・立憲・国民の鈴木氏という感じですが、東・中・西部という問題もあり、経済界も静岡市と浜松市と二つに分かれています。政策的にはどちらの候補もあまり違わないように見えますので、西部をバックにした鈴木氏と中部の大村氏という地域対決になって、東部での得票率がカギを握るという構図になるような気がします。また浜松市長としての実績が明確な鈴木氏に対して、元副知事の大村氏の実績ははっきりせず、しかし浜松色の強い鈴木氏に対して、地域色に薄い大村氏ということもあり、一般県民がどちらを選ぶかを見極めるのはなかなか難しいですね。個人的には政治家としての実績のある方が、誰かに振り回されて混乱している県政を、うまく調整してくれるのではないかと期待する部分がありますが。
 それでは「概説 静岡県史」第138回のテキストを掲載します。

第138回:「戦時林業統制と遠洋漁業の解体」


 今回は、「戦時林業統制と遠洋漁業の解体」というテーマでお話します。
 農業全体が戦争を軸にして統制の網を掛けられたように、林業政策も変容を迫られました。これまでの林業政策の基本は、森林資源の荒廃、涸渇を防いで、豊富な森林資源を造成することにありましたが、戦時経済が要求したのはそのような資源確保政策ではなく、生産力拡充および軍需に直接役に立つ木材、薪炭の確保でした。
 県内の伐採面積は40年代に入ると、公有林、民有林を中心に木材の需要に照応して急激な伸びを示します。このような増加に対して1943年(昭和18年)に「立地の関係上、生産費に多額の経費を要し買付の及ばざりし不経済林」を対象に補助金を交付することでその不足を補おうとしたことは、森林資源を確保するのではなく、木材需要に応じることにウエイトが掛けられていたことが分かります。また42年の「林業振興補助規則」は、従来の補助金制度の目的を変更し、緊急な木材・薪炭の増産を確保するための林産物搬出施設や木炭生産その他林業改善施設に対して補助金が下付されるようになりました。静岡県でも林道、共同施設、伐木搬出施設に対する補助金が県内32か村に交付されました。このような木材生産増強を統制する機関として、木材会社が設立されました。
 木材会社は、農林省が1941年(昭和16年)3月に出した「木材統制法」に基づいて設立され、①木材生産の全過程および流通過程を全面的に統制すること、②そのための統制機関として日本木材会社、地方木材会社を設立すること、の2つが重点でした。なお、地方木材会社は「地方的に木材の生産竝に其の需給の円滑御及価格の公正を図る為必要なる事業を行ふことを目的とする」もので、その実質的業務は、立木の買い入れおよび伐採、木材の生産、木材の買い入れ、売り出しならびに販売の受託などです。
 「木材統制法」に基づき同年5月には「木材統制施行令」、「木材統制法施行規則」が施行され、日本木材会社、地方木材会社の設立準備が進められました。日本木材会社は、41年(昭和16年)8月18日に設立総会が開催されました。地方木材会社については、農林次官から地方長官へ向けて、一定地域ごとに設立すること、設立までの経過的措置としてその統制上の任務は地方庁の指揮のもとに府県木材組合連合会があたることが指示されました。当初全国を8ブロックに分ける予定でしたが、審議の過程で2、3に分けることになり、静岡県は神奈川県、山梨県と同じブロックに位置付けられました。しかし、設立可能なブロックは北海道だけで、他の地方での早急な結成は困難視されました。そのため、その下部にあたる生産実体としての中核体の組織化を先行させることになりました。静岡県では41年9月ごろから中核体組織が設立されることになり、8つの中核会社が流域別ないし郡別に結成されました。このような過程で数県にまたがる地方木材会社の結成という当初計画は変更され、43年11月、閣議決定を経て「木材統制整備要綱」の通牒が出され、地方木材会社は府県単位となりました。これにより県単位の県木材会社が「木材統制法」に基づく地方木材株式会社として指定されることになりました。静岡県では天竜川木材、大井川木材、静岡木材、清水港木材、庵原木材、富士郡木材、駿豆木材、賀茂郡木材の8つの中核会社が統合され、43年3月に静岡県木材会社の創立委員会が開催され、木材統制機関としての役割に担うことになりました。
 木材ばかりでなく、生活物資としての薪炭を増産することも緊急の課題でした。40年に「木炭配給統制規則施行細則」が制定され、41年に「瓦斯用木炭配給統制規則」、42年に「薪配給統制規則」などが出され、木炭・薪の集荷統制は産業組合に一元化されました。統括機関となった静岡県購買販売利用組合連合会は、「戦力増強の直接資材と国民生活必需物資たる薪炭は、原木不足、労力の制限などの悪条件のため出廻り不足となり、本県はかつ自給自足県と指定されてここに万難を排して一大増産に邁進せねばならない状態」を打開するために、42年12月に「薪炭増産対策要綱」を作成して薪炭増産計画を立てなければならず、各郡単位に生産割り当てを課しました。
 1910年代に入ると、静岡県漁業は焼津港を中心とした遠洋漁業によって大きく発展していきました。30年代に入ってもそれが継続し、漁獲高は30年代を通じてほぼ10万トン台を維持して拡大基調にありました。特に主要な地位を占めるカツオやサバは順調な伸びを占めています。これは漁船の大型化、大馬力化に加えて鋼船化によるところが大きく、特に焼津において遠洋漁業の中心に位置していた東海遠洋漁業株式会社と焼津町生産組合の二大会社が、この時期急速に漁船の大型化、大馬力化を実現していました。東海遠洋漁業株式会社は、1907年(明治40年)に焼津市の漁業・片山七兵衛を中心に設立されました。同社は市内外からの資本調達により、発動機付漁船を多数新造し、南洋への出漁を実現しました。焼津町生産組合は、08年の産業組合法により山口平右衛門、服部安次郎らが設立し、預貯金による資金の収集と組合員への漁船と資金の貸付を主な業務としていました。のちの焼津信用金庫、現在のしずおか焼津信用金庫です。
 両社は31年以降、大型鋼船を積極的に建造し、31年から37年にかけて東海遠洋漁業株式会社は11隻の鋼船を建造し、焼津町生産組合は13隻建造していて、焼津におけるカツオ漁業の黄金時代と称されました。
 しかし日中戦争が始まると、鋼材資源の使用制限が行われたため、漁船建造が次第に困難になり、そのうえ1940年(昭和15年)には大型漁船の徴用が本格化し、遠洋漁業は壊滅的打撃を受けることになりました。40年代に入ってからカツオ、サバ、マグロの漁獲高は激減しました。例えばカツオは、38年3万1798トンを最高として、45年にはその1/10以下に低迷しましたが、漁獲高全体で見ると、42年18万7817トンを最高とし、45年3万969トンで42年の1/5分にとどまっています。漁船数は最盛期であった39年以降も20トン未満の動力船が2000隻台を維持していましたが、20トン以上の動力船は39年の108隻をピークに減少し、43年には1/3まで落ち込みました。主としてこのクラス以上の漁船が徴用の対象であったと考えられます。つまり、戦時下でも沿岸漁業や沿海漁業が20トン未満の動力船や無動力船によって規模は縮小されつつも維持されたのに対して、主として20トン以上、特に50トン以上の漁船が徴用されたため、焼津の遠洋漁業は壊滅的打撃を受けてしまったということです。
 漁船の徴用は1937年(昭和12年)に始まりますが、焼津における徴用船は38年から45年にかけて85隻です。徴用が始まった37年には4隻が徴用されているので、総数はおそらく90隻以上だったと考えられます。これら徴用船の一部は連合艦隊第五艦隊第二十二戦隊(監視艦隊)に編成されたとされています。監視艦艇の任務は、敵の機動部隊による本土襲来を海上で事前に発見して報告することでしたが、「監視艇といっても名ばかり、この小船では搭載兵器の量と質に限りがある」以上、多くの犠牲を強いられる状況にありました。そのため「海軍魂」を鼓舞して乗組員の精神的高揚に期待しなければなりませんでした。
 しかし、徴用は「本土決戦」のためだけではありませんでした。焼津市誌編纂委員会編『焼津市誌』に掲げられた戦災沈没漁船調査表には、41年3月から46年4月にかけて沈没した58隻の漁船の船名、船質、トン数、馬力、沈没年月、犠牲者数、沈没場所が記されています。これによると、41年に1隻、42年、43年に各2隻、44年19隻、45年25隻と戦局が悪化するとともに被害が拡大します。また沈没場所は揚子江下流や南洋諸島にまでおよんでいるところを見ると、「本土決戦」のための徴用だけではなかったことが分かります。しかも、敗戦を経た46年にも犠牲となった漁船がありました。
 次回は、「満州開拓移民」というテーマでお話しようと思います。



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