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毛利元就の家督相続

はじめに

皆様、いつも読んでいただき、ありがとうございます。前回に引き続き、毛利元就を書いていきます。よろしくお願いします。

前回は、毛利氏のはじまりと彼の人生の幼少時について書きました。彼の父、そして兄が亡くなってしまい、兄の長男、幸松丸の後見人として歴史の表舞台に立ちました。

有田中井手の戦い

1517年、興元が亡くなり、幼い当主が率いることになった毛利氏の混乱を好機と見た佐東銀山城主、武田元繁が攻めてきます。武田氏は安芸国の守護です。元就は、先手必勝を考え、籠城せずに有田城下で戦うことを決断しました。

武田軍5,000対毛利軍約1,000の戦いでしたが、機先を制した毛利軍の勝利に終わりました。武田軍は、当主の武田元繁が討ち取られる大敗北となり、安芸国での勢力図を塗り替えるきっかけになったと言われています。

この戦いで毛利元就は初陣を飾り、かつ圧倒的兵力差を覆す大勝利を収めたことで、一目置かれる存在となり、安芸国内において飛躍するのでした。

鏡山城の戦い

当時の中国地方や大内氏と尼子氏の二大勢力があり、毛利氏などの安芸国の小さな大名は、どちらかに従属しながら、身を保っていました。

1523年、尼子経久から毛利氏に出陣要請があり、大内方の鏡山城攻略を攻めることになりました。元就は、幸松丸を補佐し、調略を用いながら攻略することに成功します。

この調略は、以下のとおりです。城主、蔵田房信の叔父の直信をターゲットに決めます。直信に房信を討ち取れば、房信の所領を与えると約束して内応します。そして、攻略することに成功したのです。

ただ、この蔵田直信は、尼子経久の命令で処刑されてしまい、元就の面目は潰されてしまったようです。

家督相続

この鏡山城の戦いで負担になったのか、戦いの直後に幸松丸がわずか9歳で亡くなってしまいます。この戦いで尼子氏は幸松丸に首実験を強要し、それがきっかけになったとも言われています。

当然のことながら、幸松丸の後継を誰にするかということになります。そして、毛利元就が家督を継ぎ、毛利家当主となったのです。

この家督相続には、尼子氏の介入の動きもあったようですが、重臣の推挙と合意があり、元就の相続に決まりました。

元就は、軍勢を率いて家督相続をまとめるわけでもなく、重臣の合意がまとまってから本拠地の吉田郡山城へ入場しています。

有田中井手の戦いの時のように機先を制する動きをしたり、鏡山城の戦いのように調略を行ったり、家督相続時は、じっくりと待ちの姿勢を持っています。彼は、状況に応じて使い分ける動きをしています。しかも、家督相続時の彼の年齢は、27歳です。現代人の私の感覚だと、この年頃で、こういった形で使い分けるのは難しいのでないでしょうか。出る杭は打たれる、重臣の恐ろしさというものを元就は、幼少期の体験(父や兄が亡くなり、居城も奪われたこと)から学んでいたような気がします。

つづく

記事を作成するに際し、以下の書籍を参考にしました。

小和田 哲郎,「毛利元就  知将の戦略・戦術」,凸版印刷株式会社, 2013年1月
吉田 龍司, 「毛利元就 猛悪無道と呼ばれた男, 株式会社新紀元社, 2010年9月

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