「東へ征(ゆ)け」第53話 邂逅
三輪山の日向本陣で磐余彦がとんでもないことを言い出したのは、ちょうどそんな頃である。
「長髄彦どのに会いたい」
道臣や来目、隼手、椎根津彦、弟猾、八咫烏、弟磯城ら諸将と夕餉を囲んでいる時だった。
「会ってどうするのです?」
日頃冷静な椎根津彦が驚きを隠さず言った。
「分からぬ。だが話せば分かってもらえるような気がするのだ」
磐余彦が静かに答える。
「吾は同意しかねます。会うと見せかけて殺されるかもしれません」
道臣が憤慨して言った。
他の家臣たちも一斉にうなずいて道臣に同調したのは当然である。
「だが吾は昔一度会ったことがある。殺されても仕方がないところを見逃してくれたばかりか、天羽羽矢まで頂いたのだ。皆が言うほど了見の狭い方ではないと思う」
磐余彦の言葉を聞いた道臣が、手にしていた粟飯の椀を地面に叩きつけた。
たちまち椀が砕けて飯粒が飛び散り、皆が凍りついた。
「磐余彦さまはもうお忘れか。長髄彦は五瀬命さまを殺した憎き仇ではないですか!」
戦場では鬼神もひれ伏すほどの猛将が烈火のごとく怒っていた。
「忘れてなどいない。だがあの時まっすぐ東に進んだのは兄者の誤りだ。むろん止めなかった吾の責任も免れぬ。だがあの時勝敗はすでに決していた。我らは自ら負けたのであって、武人として長髄彦どのを恨む気にはなれない」
すでに十分な威厳を備えつつあるかに見えた磐余彦だが、この時ばかりは父親に食い下がって懸命に反抗する少年のようだった。
道臣はそれでも怒りの表情を崩さなかった。
ただし、肩を震わせながらもそれ以上の反論は控えた。
磐余彦の言うことにも一理あったからである。
これ以上の戦いは互いに傷を深くするだけで、日向・ヤマト双方の軍勢にとっても利益は少ない。
遺恨を残さずに手打ちができるのなら、それに越したことはなかった。
気まずい沈黙ののち、椎根津彦がやれやれとため息をついて立ち上がった。
「あなたは仕方ない人だ。もっとも、それが臣も含め皆に好かれる理由でしょうが」
道臣が苦虫を噛み潰したような表情でうなずいた。
「やってみましょう。敵の副将少彦名どのとはいささか縁があります」
最後は椎根津彦が笑って請け負った。
会見は四日後、場所は三輪山の北麓と決まった。
この辺りを領地とする事代主の四阿が会見の場所である。
その日の朝、磐余彦は道臣と椎根津彦のみを連れて会見に向かった。
事代主の四阿からは、大和三山に加え生駒山地の峯々も見はるかすことができる。
磐余彦たちが出向くと、長髄彦の一行はすでに到着していた。
側近の少彦名と若い武人を連れている。
少彦名が道臣を見てにやりとした。
「そこのお方、そんな殺気を出されたのでは落ち着いて話もできませぬ」
磐余彦ははっとした。
自分も緊張しているせいで気づかなかったが、道臣は全身からすさまじい殺気を放っていた。
剣を取っては天下無双の武人が、磐余彦に万一のことがあってはとの思いが募り、まったく余裕を失っている。
暴発する危険すらある。
「ご無礼のほどお許し下さい。この者は下がらせますゆえ、しばしお待ちを」
磐余彦は部下の非礼を詫び、道臣に四阿から百間(約百八十メートル)離れた場所で控えるように命じた。
念のため辺り百間四方には兵を配し、刺客などが立ち入らないよう厳重に警護している。
警護の責任者は来目である。
道臣は激しく抵抗したが、磐余彦が厳しく命じるとやむなく応じた。
一方長髄彦の側でも、若い武人――長髄彦の長男で鳥見彦と名乗った。父親に似て太い眉に大きな目、長い手足を持つ――が道臣とは反対側に百間離れて控えることになった。
「若い者は血の気が多いですからな」
少彦名が乾いた笑い声を上げ、座が和んだ。
四阿の中央に茣蓙が敷いてあり、左に磐余彦と椎根津彦、右に長髄彦と少彦名が相対する形で座った。
十数年ぶりに間近に見る長髄彦の髪には白いものが目立った。
だが目は炯炯と輝き、気魄はいささかも衰えていない。
少彦名はどこにでもいる好々爺といった印象だが、ときおり隙のない目の輝きを見せる。
河内の白肩津に上陸した際に、少彦名の策にまんまと嵌められたことは磐余彦も知らない。
口火を切ったのは長髄彦だった。
「天羽羽矢を射たのはそなたか」
「はい」
磐余彦がまっすぐ目を見て答えた。
「あの時の小僧だな」
長髄彦が眼光鋭く睨む。
「覚えておいで下さったのですね。周防でお会いした時のことを」
磐余彦の顔が嬉しそうに輝いた。
「無論だ。忘れるわけがない」
今から十数年前、当時出雲王だった長髄彦は鬱々として狩りに出かけた。
ヤマト王ニギハヤヒに屈服し、間もなく出雲の地を離れることになっていたからである。
その時見知らぬ小僧(磐余彦)に出会い、気まぐれから天鹿児弓と天羽羽矢を与えてしまった。
それが巡り巡ってふたたび自分の元に返ってきた。
兄に傷を負わせるという大きな代償まで払って――
一瞬の感慨ののち、長髄彦は改めて目の前の若者を見据えた。
磐余彦は聡明さを湛えた目でまっすぐにこちらを見ている。
敵意も好意もない、滔々と流れる清流のような澄んだ目だ。
気品に満ちた顔立ちと逞しい肉体、それでいてあくまで謙虚な姿勢を崩さず、余裕すら漂う。
ニギハヤヒのような傲慢さは微塵もない。
「よき武人になったようじゃ」
長髄彦の中で明らかな好意が芽生えたようである。
(つづく)
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