「東へ征（ゆ）け」第59話 論功行賞

　春、磐余彦いわれひこは皇后の踏鞴五十鈴媛たたらいすずひめとともに、橿原かしはらの小高い丘の上に立っていた。
　東方には三輪山みわやまが雄大な裾野を広げ、西に目を転じれば葛城山かつらぎさんや金剛山こんごうさん、二上山ふたかみやまの山稜が霞んで見える。
　眼下には桜の花がいまを盛りと咲き誇っている。亡き兄五瀬命いつせのみことが見たいと望んだヤマトの桜である。
―—自分はあの山々の遥か西、九州は日向ひむかから海を越えてやってきたのだ。
　我ながら信じられない思いだった。
　そして成し遂げたこともさることながら、これからやらねばならないことの多さと、そのいずれもが焦眉の急を要することに、磐余彦は改めて身が引き締まる思いがした。
　この地に王都を建て、新たな国造りをするのだ――。

　磐余彦の肩に乗った鵄とびのイツセがさっと空に飛び立った。
　イツセは春霞はるがすみのかかる空に高く舞い上がり、旋回しながらぴーひょろろと気持ちよさそうに鳴いた。
　踏鞴五十鈴媛は微笑みながら眩まぶしそうに空を見上げている。
　その美しい横顔を見て、勇を鼓舞するように頷うなずいた磐余彦は、手元から絹にくるまれた包みを取り出した。
「海石榴市つばいちで見つけたのです」
　そう言っておずおずと差し出す。
「私わに？」
　踏鞴五十鈴媛が包みを開くと赤い櫛くしが現れた。
　竹細工に赤漆あかうるしを何重にも塗って固めた、巧緻こうちな細工である。
「まあ、綺麗きれい！」
　踏鞴五十鈴媛は白い歯を見せ、輝くように微笑んだ。
　髪に櫛を挿さすと、艶つややかな黒髪と白い肌に朱色が映えて美しかった。
　大輪の花のようだと磐余彦は思った。
「よく似合います」
　磐余彦の言葉に、踏鞴五十鈴媛の頬が櫛の色が移ったように染まった。

「理想の国を造ることが難しいのは、分かっています。しかし最初からできる筈はずがないと諦めては、本当に良い国などできる訳わけがないのです」
「あなた様ならできます。民や兵士と共に苦労を厭いとわぬ大王おおきみなら、必ずや」
「力を貸していただけますね？」
「もちろんです。大王のお力になれるよう、私も力を尽くして参ります」
　踏鞴五十鈴媛は明瞭な声できっぱりと言った。そこに芯の強さを感じさせる。
　皇后にふさわしい品格と容色、聡明さを兼ね備えた女性である。

　見つめ合う二人の顔が自然に近づいていく。
　と、その時――
「大王！」
　道臣みちのおみが大声で叫びながら丘を登ってくる。
「吉備の鷲羽王わしゅうおうの使者が、祝いの品を持って参上しました。いかがいたしましょう……」
　しーっ！
　来目くめが木陰でぼやいた。
「これからいいところだってのに、本当に戦いくさしか知らねえ唐変朴とうへんぼくだぜ」

　宮殿が完成するのを待って、磐余彦は論考行賞を行った。
　日向を出発して以来、ずっと磐余彦の傍にあって助けてきた道臣は、勲功第一であるとして築坂邑つきさかのむら（橿原かしはら市鳥屋町付近）に宅地を賜った。
「吾は地位などはどうでもよいのです。磐余彦さまに末永くお仕えできれば」
　紅潮した面持ちの中にも、これからも一層励もうという意欲に満ち溢あふれていた。
　来目には畝傍山うねびやま西麓の来目邑むら（橿原市久米町付近）が与えられた。
「おいらも日臣ひのおみ、おっと道臣兄いと同じ気持ちです。そしてこれからはヤマトにいる土蜘蛛つつぐも（先住民）の仲間も大事にしていきたいです」
　大きな目を輝かせながら、明るい表情で抱負を語った。

　椎津根彦しいねつひこは倭国造やまとのくにのみやつこに任命された。
「臣やつかれは任された役目を果たすのみです。それが全うできないようなら、速吸門はやすいのとに帰るまで」
　いつもと変わらぬ冷静さで答えた。
　弟猾おとうかしには猛田邑たけだむらを授け、猛田県主あがたぬしに任じた。
　また宇陀うだの主水部もいとりべ（宮中の飲料水を管理する役目）の先祖となった。
　弟磯城おとしき――後の名は黒速くろはや――は磯城県主に任じた。
　鍛冶かじの頭領として日向軍を支え続けた剣根つるぎねは葛城国造かつらぎのくにつこに任じられた。葛城氏の祖である。

　熊野から険しい山を越えて道案内をした八咫烏やたがらすにも褒美ほうびが与えられた。
　子孫は山城やましろの葛野主頭かずののともり県主（賀茂県主）となった。
　主頭とは天皇の乗り物や宮中の明かりや暖房などを司る職である。
　国造も県主も、地方の小領主のことだと考えられる。

　なお、『日本書紀』に隼手はやての名は記載されていない。
　欲とは無縁の男だけに、敢あえて官職を受けなかったのであろう。
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　（つづく）